・歯ブラシをくわえて窓に額つけ「ゆひぃら」と騒ぐ雪のことかよ
穂村弘の短歌である。
銀世界。雪の朝は余分な音が消されて、
起きたときちょっとはっとするものだ。
わたしは、だいたい雪の朝は妻に起こされる。
雪よ、このことばには、
なにか人間の奥底に閉じこめられているなにものか、
それがなんだかわからないが、
そのもの自体が揺り動かされるような気がする。
これは、ひょっとすると、
マンモスのいたころやあるいは氷河期の
太古の昔と人間との自然との闘いの記録が
われわれのDNAのチップに
埋め込まれているんじゃないか、わたしはそうおもう。
さて、はなしがすっかりかわるが、
ひとには対話が必要だ。だいたいギリシア哲学も、
東洋哲学も、対話という形式で成り立っている。
日本の禅問答などもそのいい例である。
たぶん、会話、対話には、思考中枢を刺激して、
おもわぬ潜在的なふかい思想をみちびきだす
作用があるにちがいない。
おしゃべり好きの議論ぎらいな平均的日本人にも、
会話は、ストレスの解消としてはうってつけだし、
そこから、なにか、斬新なアイディアがうまれたら
見つけもの、また、その自然なおしゃべりにこそ、
そのひとのひととなり、核心が滲み出たりするものなのだ。
おととい、タクシーに乗ったのだが、この運転手がよくしゃべるひとで、
えー、お客さん、そこに行くのにはこのまま、
環状八号線を通って、丸子橋をわたって、
そこを右折するコースをおもいついたのですが、
そのルートでよろしいでしょうかね、
もし、べつのコースがあるなら、
おっしゃっていただければ、その通りにいたしますが。
いやいや、おまかせしますから、
そうのように行ってください。
そーですか、では、そのように参ります。
いやー、わたし、いまね、高井戸から来たんですが、
きょうは雨ですから、ここまで来たんですよ。
わたしどもはね、神奈川ではお客さん拾えないんですよ、
ですから、川向こうの地理は覚えないことにしているんです。
そーですか。
わたしには、まったく必要のない情報ばかりだから、
これは対話でも会話でもない。
一方方向のベクトルしかない。
ところで、この運転手みたいにじぶんのことしか言わないひとは、
どうも苦手だ。
とくに、わたし○○な人なんです、
とか、じぶんのことを、何々な人、と、
さも客観的な表現でじぶんを語るタイプがいるが、
あれほど主観的にじぶんを表現する言い方はないわけで、
おまけにそこにナルシスの水仙の花のような
自己愛を感じてしまうので、
余計に腹がたってくる。