いまだに忘れられない光景がある。
 父も母も健在で、三人家族だったわたしどもは、
箱根に旅行にでかけていた。
 まだ、わたしが幼稚園のころだったとおもう。
わたしの父は、カメラが好きで、ペンタックスを愛用し、
当時では、めずらしい8ミリも購入していた。
 8ミリとは、いまじゃあたりまえになっている、
デジタルビデオの前身で、8ミリビデオとか、カラーテレビとか、
車とか、そんなものを持っている家庭は稀有であった。
 たしか、ようやく我が家に冷蔵庫がやってきたころだったとおもう。
 たぶん、8ミリは、ずいぶんしたはずだ。
父は、それを自慢げにわたしたちに見せびらかした。
 いまからおもえば、8ミリ撮影のために
箱根に出かけたのかもしれない。
 当時は、我が家には車はなく、父も免許がなく、
バスで箱根山を登っていった。
 富岳百景、たぶん富士も大きくそびえていたのだろうが、
そんなことは、幼少のわたしは覚えてない。
 よく覚えているのは、バスが満員で、
わたしどもは座ることなく山道に揺れていたことだけである。
 どこで降りたかはわからない。
トンネルの少し手前の停留所である。
 わたしどもは、そこで降りて、おそらく宿に向かったのだろう。
と、そのときだ。
父が「あ」と、驚きの声をあげた。
 「8ミリ、忘れた」
 バスの荷台に、あのステータスなシロモノを
おいてきてしまったのである。
 父はよくそういうことをした。
 母は、あきれた顔をしたとおもうが、それも覚えていない。
覚えているのは、三人で、がむしゃらに走って、先ゆくバスを
追いかけたことである。
 走る。走る。
 トンネルのはるか向こうにバスのランプが見える。
「待って~」
 母の金切り声。
わたしは、なぜじぶんが走っているのか、
とにかく喫緊の事態がいま起こっていることはわかるが、
なぜ、バスを人力で追いかけなければならないのか、
よくわかっていなかったとおもう。
 とにかく、父と母のうしろを追いかけたのだ。
その間、ずっと母は、金切り声をあげていた。
 バスはつぎの停留所でわれわれを待っていてくれていた。
だから、難を逃れることができたが、
これも、すべて父の失策である。
 あのトンネル内の激走はいまも脳裏のどこかにある。
 さいきん、鏡を見たり、じぶんの写真を見たりすると、
父に似てきたことに気づく。それは、わたしにとって、
なぜゆえか、いい気持ちのするものではない。
 しかし、加齢するごと、こうやって父に近づいているということは、
まぎれもない事実なのだろう。
 やはり、わたしは、
いまでも父を追いかけているのかもしれない
        