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伝説のひと

生きながらにして伝説となる人物がいる。

 フォーク界なら「高田渡」。
 われらの仲間では「星野清」だろう。
 声楽家としても、カールオルフの研究家としても有名なのだが、

イタリア人みたいに仕事が大嫌いなんで、

大学教授のポストも公立の教員もみんな断ったり辞めたり。


 イタリア、ベルカント唱法の第一人者、

ダルフィヨールに師事、その筋でも名が通っていたのに。


 で、ここ数年は好きな釣りに静岡まで足しげく通っている。

いまでは「静浦」一帯の釣り人をほとんど家来にしている。

 

 


 かれの狩猟本能は伝説にふさわしい。

夜中の防波堤、コールタールのような海。

風もつよく、海の表面は波の高低にしたがい

星のあかりだけが「うねる」ようにしろくひかる。

海は、そういう意味では「いきもの」なのだ。

夜の海は、ゆったりと、

だが、にんげんをこばむように動いている。

防波堤にたたきつける波の音があの世と

この世の境のように響いてくる。


 そのなかにたたずみ釣りをするものは、

どこかに、なんらかの後ろめたさと畏怖を抱かずにはいられないのだ。


 と、なにかに反応したように、かれは玉網をとりだし、

防波堤に腹ばいになりながら、海面をざばっとすくう。

それは、寝たままの素振りである。

が、網を持ち上げたその中に、なにものかがはいっている。


 ワタリガニだ。


 星野さんの玉網にはワタリガニが入っていたのだ。十五センチくらいの中型。


 真夜中の漆黒の世界から、

一匹のワタリガニが名人の手によってすくいだされた。
 まず、ここの海に「ワタリガニがいる」ことを「知っている」ことにも驚くし、

この、暗黒の闇からたった一匹の

ワタリガニを「捕獲する」のにも舌を巻く。

 

 

「ほら、やるよ」


 と、防波堤に揚げられたワタリガニをわたしにぽんと差し出した。

ヘッドライトに照らされたワタリガニは、

菱形の甲羅にその倍くらいある細いはさみをもって、じっとしている。

カニもびっくりしたろう。じぶんの真夜中の隠密裏の行動を、

ひとりのにんげんに察知され、こうして、陸に拉致されたのだから。


「あ、ありがと」


 わたしは、この無意味な被害者の背をきゅっとつまんだ。


 と、「やつ」は二本の細長いはさみをのけぞるようにうしろに持ってきて、

わたしの手の甲をぎゅーと挟んだのだ。

 

 


 不意のできごとだった。まさか、こんなにふうにはさみが背中にまわってくるとは。

その激痛に、わたしは、おもわず「うっ。痛っ」と声を洩らした。

 見上げると、星野、笑ってやがる。それは、

ワタリガニとの共謀ともおもえる笑い方だった。

 伝説となるひとは、やはり、偉大だ。

自然のなかに溶け込んでいるのかもしれない。

 

だからからか、かれだけ、たんまり黒鯛を釣って、さあ帰ろうと片付けをしていたときだ。

たぶん夜中の二時をまわっていたろう、

かれは、じぶんのはずしたリールを海におとしてしまった。


 名人の手からこぼれたのだ。

かれの所有するリールは、わたしの持っている

五千円くらいのチープなものとはちがう。

七万円はする高級品だ。玉網ひとつでも五万円くらいするからね。
「あ」とかいいながらも、七万円は海底ふかくに沈んでいった。
「もう、ずいぶん使ったから、いいですよ」
 名人は紳士であった。けっして、怒らない。

この二十年間、かれが激昂したところをいちどもみたことはない。


 わたしなぞ、針につけるエサのちいさなカニにゆびをかまれたとき、

あまりの痛さに、「このやろ」っていいながら、

そいつをとっさに手のひらで、べちゃっと潰してしまったことがあったが、

それを横で見ていた星野さんは、


「ああ、ひどいなー」

と、困ったような顔をしていた。

わたしは、わたしのウィークをよくかれに目撃された、

が、かれは、かれのウィークをわたしに見せたことはいちどもなかった。

 
 黒鯛は防波堤から「すかり」で吊るされている。

いま、大事なアイテムを失ったばかりの名人は、

動揺も見せないままするすると、戦利品を引き上げた。

 

 

 


 と、そのときだ。

奇跡はおこった。

伝説は伝説を呼ぶのか、

かれには、あたりまえのできごとなのか、

おおきな神がおおきな掌を差し伸べているのか、

わたしにはとうてい理解のつかないことだった。

が、しかし、そのとき、わたしは確実に、

かれが自然と同化していることを目の当たりにしたのである。



 引き揚げた黒鯛の頭にリールが乗っていたのだ。