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スカッとするいい話

 さいきんのYouTubeで「スカッとするいい話」なんていうのが

ながれている。たしかに、最後は、エラそうにしている奴が

ギャフンとなる話である。

 

勧善懲悪といってもいい。気持ちいいよね、結末は。

ざまぁみろって感じ。

 

 ただ、その「オチ」が、おおよそ、

かれの父親が親会社の社長だった、とか、

どこかの世話になっている会長だった、とか、

大手の取引先の会社だった、とか、

ビジネスに欠かせないものからの

しっぺ返しの図式なのである。

 

 すべてが、紋切り型の権威主義を

下支えにしていることは否めない。

 

 

 わたしたちの社会は、資本主義システムの権威のもとに

生きていなければならない。システムに逆らえば

生活に貧窮するからである。

 

 つまり、システムという、じつは和語にうまく変換されない

この概念にわたしたちは身をうずめているということだ。

 

 「体系」とかいえば、そうかもしれないが、

このような日本語にならないものを

骨肉化することを養老先生は「脳化」といい、

そのような人を「社会的身体」とよんでいるが、

そんな社会的身体という閉塞感のなかの

ポジション取り、つまり座席争いをしている

われわれには、この権威主義がもっとも有効に

機能していると言わざるを得ない。

 

夢も趣味も好奇心も希釈されたニンゲンの

安住の地は、この権威主義的な世の中にしかないのだろう。

 

 たしかに、安全、快適、便利な世の中ではあるし、

そういうコクーンの中にいることも事実である。

 

 いまのところ他国からの侵略もないし、

民主主義が否定されることもないし、

財産価値がゼロになることもない、また、

日本が崩壊することも、まだないだろう。

 

 だから、この安全地帯、アジールのなかでは、

ひとは、そこに最大限の利得をかんがえるわけだ。

好奇心がないから、この領域から飛びだそうなど

かんがえもしない。

 

 それが、コスパ人間を再生産してゆく仕組みである。

 

ただし、資本主義システムのポジション取りに

根ざした権威主義は、幻想であることに

ひとは気づいていない。

 

幻想も人びとが認知、承認すれば存在するから、

このヒエラルキーはいまのところ安泰なのだろう。

 

むしろ、幻想であることに気づかないふりをすることが

もっとも崇高な幸福論なのかもしれない。

 

ひとは、認知的斉合性の生き物だから、

気づきたくなければ、無意識的に

気づかないふりができるのである。

 

 高度資本主義は、

計算可能性と官僚制を絶対のもとした。

 

計算可能性とは、どうすれば

より多くの利得がもとめられるか

考量するための必須条件だ。

そして、その社会を支えるのが官僚制である。

 

20世紀の発展を推進したのは

この図式であるわけだが、

そうすることの負の遺産として

ひとはシステムを操作するのではなく、

システムに隷属されることを

甘んじて受けるはめとなった。

これは、マックスウェバーの考量である。

 

また、仕事も、みずからのためではなく、

だれかのためにする、という、

いわゆる「ゲシュテル」の構図がうまれる。

 道具はニンゲンがいかなるようにも

操作できるのではなく、

主体は技術の体系である、

つまり「ゲシュテル」だと論破したのは

ハイデガーである。

 

 こういった識者の言説をとおして、

社会的身体が構築されてゆくなか、

われわれは、あのひとはお金持ちだからエライ。

 

会社の社長だから文句もいえない。

 

高学歴だからすばらしい。

 

こういう、フーコーが危惧していた

「価値観の一元化」を

自明の真理のように

ものの見事に構築していってしまったのだ。

 

 

 

「スカッとするいい話」はたしかに

スカッとする。

が、その半面、なんだか、ちょっと

哀しくなるのも事実である。