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全体主義

 

 近代国家において、民主主義が成立していたのにも

かかわらず、ナチズムやファシズムや、

日本の治安維持法的天皇制がうまれてきたのは、

なぜなのか、という問いかけは、

小森陽一氏の『法、民主主義』に詳しい。

 

 しばらく、小森氏の書物にひきずられて

かんがえていくが、この体制は後には「全体主義」と

よばれるようになるわけで、この体制は、

一定の民主主義が法的に保障されているなかで

生み出されてきたことに着目すべきである。

 

 歴史的には、第一次大戦後の不況とか、

世界恐慌の影響下において、貧困、

財政破綻、中産階級の没落といった

底なしの社会不安のなかにあって、

大衆は、独裁政治につながる政治勢力を

みずからの代表に選択していったのである。

 

 これは、いまの言説でいえば、

「ショックドクトリン」いわゆる惨事便乗型資本主義と

おんなじ構造であり、

大衆の「どうしたらいいかわからない」状況に

乗じて、みずからのイデオロギーを

注入する社会装置がはたらいたとみてよい。

 

 さて、この政治勢力の下敷きに、

とうぜん「ポピュリズム」、

大衆扇動主義があったことは自明である。

 

 ポピュリズムとは、大衆の不安に乗じて

かっこいいことを言って、大衆を味方につけ、

じぶんたちの考量をわれわれに

刷り込もうとする企てである。

 

 ショックドクトリンと構造的にかわりない。

 

 ポピュリズムの言説構造は、

漸層的に大衆に、酸が侵食するごとくしのびよってくる。

 

 まず、第一段階として「仮想敵」をつくる。

それは、社会の外側と内側に同時につくり、

すべての従属矛盾も主要矛盾も、そいつのせいだ、

というふうにしておく。

 つまり、すべての社会的矛盾を単純化させ、

「世の中って不安だけれども、シンプルだよね」って

見せておくわけだ。

 

 つぎの段階は、「仮想敵」をいくつかのイメージとして

とらえ、それを再三アナウンスし、

大衆の言語的、論理的思考を封印させ、

その上で、単純でわかりやすい言語と映像でもって喧伝してゆく。

 それを再生産させてゆくと、大衆の思考停止につながる。

 

 たとえば、村上医院のとなりに住んでいる奥さんが上智大学の先生と

浮気しているよ、ってだれかが叫び続けていれば、

そのひとを知っているひとは、奥さんの人格は

完全にデリートされ、「浮気女」というレッテルでしか

見なくなるのと構造的に類比的である。

 

 つぎの段階は、「仮想敵」との歴史の消去である。

それまで、その敵とはうまくつきあっていた時代もあるはずだ。

が、そういう歴史は、大衆の思考を

作動させてしまう要因である。

「むかしは、なかよかったじゃん」というのが、

もっとも邪魔なのだ。

 

 つまり、「仮想敵」とは、過去を振り向かず、

現在だけをみつめさせるようにし、この段階から

今後をかんがえるしかないとおもいこませることにある。

 

 そして四段階目は、

ようやく「仮想敵」が浸透してきた段階で、

このへんからあやしい動きが活発化されるが、

なんか間違ってるような言説でも、

大衆の思考停止の上の仮想敵のイメージの刷り込みによって、

よくわかんないけれど、悪いのは「やつだよね」という

ことをわれわれの共通認識にさせてしまうのである。

 つまり、問題を一元化してしまうのだ。

 よくかんがえれば、この問題とは、理由なき不安であったのだが。

 

 こういうような思考が共有されれば、

つぎは、こういうような思考を共有できないものを

ピックアップすることになる。これが「排除」である。

 

 「仮想敵なんかいないぞ」とか「王様は裸だ」とか、

そんなことを言う輩は、権力から抹殺されてしまう。

 

 そして、こういう「めんどくさいやつら」は、

法のもとで裁くというより、

すでに、その社会は正しい法が作動していないのだから、

なんとなく捕まえて暴力的な処遇をするのである。

これが五段階目。

 

 こういう事況を「法に拘束されない暴力の連鎖」とよぶ。

 

 このような排除の構図にもっともキャッチーだったのは

「非国民」という概念である。

 あらたな概念をつくることを「道具概念」とよぶが、

この「非国民」という道具概念こそ、

民間流布にもっとも有効に機能したわけである。

 

 さて、そういう状況が社会にはびこると、

そこから国民皆兵制や徴兵制などが制定され、

けっきょく国民全体が戦争に総動員されるという方向が

選択されてゆくのである。

 

 国民が戦争主体となった戦争を

「世界大戦」とよぶが、

この歴史を世界は二回、経験している。

 

 クラウゼヴィッツは、

国民が戦争主体となった戦争は、

国民の憎悪と敵意がエネルギーとなって作動し、

それを「戦争の絶対的形態」であると説いたが、

そういう戦争の不幸なことは、

言説構造でも、理論的構造でも、すでに止められない、

ということである。

 

 そして、もっとも不幸なことは、非戦闘員への

ジェノサイドだったわけである。

 

 東京大空襲やヒロシマ・ナガサキという

悲劇をわれわれは直に経験したのである。

 

 さて、このように全体主義の発生から

不幸への連鎖的ベクトルを見てきたが、わたしがもうしあげたいのは、

こんどの選挙は、たしが「国難解散」だった気がする。

 

あれ、「仮想敵」を「北朝鮮」と言っていなかったかな。

 

わたしたちは、ひょっとすると思考停止に追いやられては

いなかっただろうか。

 なぜなら、あれほど、安倍さんを信頼していないのにも

かかわらず自民党が圧勝したではないか。

 

 ミサイルが日本の上空を飛んだ?  だって

大気圏の上を飛んだんだよ、ほんとうに上空かい?

 

 われわれは時の政府からのプロパガンダを

なんとなく受け容れ、なんとなくかんがえを停止させ、

なんとなく政権をゆだねだのではないだろうか。

 

 これって全体主義の兆候にひどく似てないだろうか。

 

 そういえば、小池百合子も「排除」とか

言っていたような気がするが。