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短歌について

 ・磐代の浜松が枝を 引き結び ま幸くあらば また還り見む

 有間皇子の歌である。万葉集所収。ご存知のとおり。

 和歌はこうあるべきだ、なんてことはわからないし、
おこがましいし、
そんな当為の文体が通用する世界でもない。

 だが、ひとつの方向性として、有間皇子の歌には
「いのち」が吹き込まれている。

 このあと、すぐ処刑されることがわかっているからだ。
「ま幸(さき)くあらば」などありえないのだ。

 だから、つづく、

 ・家にあれば笥(け)に盛る飯(いひ)を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る

 この歌を、家持は「羇旅」ではなく、巻2の「挽歌」の冒頭に
据えたことでも、有間皇子の沈痛なおもいが伝わるのである。

 家にいれば、お椀にもるご飯も、旅の途中だから、
椎の葉に盛るのである、という、この平易な意味の
裏側に、謀反の罪で殺される悲劇の皇子のものがたりが、
くりひろげられている。

 まるで、みずからを鎮魂するような、
この歌の重みは、いまの世でもじゅうぶん通ずるのだろう。


 和歌。短歌の歴史は、古今集、新古今、
時代ごとに、それぞれ特徴をもちながら、ゆっくりと動いてきた。

 現代では、ライトヴァースという時代から、
いまは、なんの時代だろうか、若い方が、若い詠みかたをされる。


 葛原妙子や水原紫苑のような、やや難解といわれる歌もあった。
俵万智のような、平易で共感する歌もあった。


 ・ゲーテは大き寝台に死にしかないますこしひかりをなどと呟きて 妙子

 ・殺してもしづかに堪ふる石たちの中へ中へと赤蜻蛉(あきつ) 行け 紫苑

 ・親は子を育ててきたというけれど勝手に赤い畑のトマト  万智


  三者三様の歌。葛原さんの歌や水原さんの歌は、わかりそうで、
うーん、どうなんだろう。でもリリカルであることには間違いない。
 
 俵万智さんの歌は、教科書にもあるくらい、わかりやすくて、
うん、そのとおりってところ。

 で、このわかる、わからないという読者の立場は、
経験的な読者にちかいので、そういう評よりも、
叙情性、詩性があるか、ないか、あるいは、そこに作者が見えているか、
いないか、という感想をのべるのが、読者としての、
ひとつの正しいスタンスなのではないだろうか。

 
 作者がみえる、あるいは、作品の裏側にものがたりがみえる、
奥行きがある、そういう捉え方をして、短歌のいい、わるい、
と、言えるのかもしれない。

 よくわかんないんだよ、ほんとは。

 すくなくとも、好き、嫌いではないとおもうが。


 さいきんの歌を見てみると、さまざまな歌会で揉まれてきたせいか、
じぶんの歌を否定されたくない、キズを指摘されたくない、
というおもいで作歌している方がいるのではないか、
わたしは、そうおもうときがある。

 ひどく難解なのだ。


 で、その難解さが、葛原短歌や、水原短歌ては質がちがっている。


 ・紺青のせかいの夢を翔けぬけるかわせみがゆめよりも青くて 井上法子


 次世代を担うだろう、若き歌人。
わたしは彼女が、
まだ高校生だった頃から、
賞という賞を総なめにしたきた頃から、注目していた。

 言葉遣いの巧さ、音感のよさ、抜きん出ている才能、
まったく舌を巻くほかないのだが、
すこし、気になることもある。


 これが、あなたの等身大なのだろうか。

 もちろん、歌に虚構も、よそ行きの言葉もありだとおもう。
ただ、気になるのは、あ、これ「君らしい歌だよね」とはならないのだ。

 うまいんだよね、でも、気になる。

 歌会、批評会、などで頭角をあらわした彼女だから、
言葉の運び用は、すこぶる上質である。

 わたしの邪推なのだろうが、悪い意味ではなく、
言語武装してないだろうか。いや、してないかなぁ。

 つまり、個性的な言葉でリリカルさを担保していながら、
ほんとうの自分の弱さとか、キズとか、裏にもつ物語性とかを、
封鎖してしまってはいないか、ということなのだ。

 そんなこと言うなら、わたしの歌を読まなければいいんですって
言われそうだけれども、年寄りの、ある短歌観から、
そんなおもいを抱くわけである。


 有間皇子のような、「迫りくる死」を詠もう、とはいわないけれども。