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柚子の実

川西安代さんが亡くなった。

結婚式の招待状のような封書が届き、
差出人が川西さんのご主人の名前だったので、
なにかいやな予感がしたのだが、
開けてみてびっくりした。


「妻 安代は平成二十九年十二月二十六日に
死去いたしました」と。


 なにか茫然とするというのか、力がぬけてゆくのを感じた。

 去年の十二月に亡くなっていたのだ。
たしか、わたしはそのころ川西さんに
電話をしたはずである。なにも用がないのに。


 明るい声だった。

「元気そうですね」

「そうでもないよ。けっこうつらいよぉ」


という高らかな川西さんの声。たしか、年末だった。


 去年は、川西家には、
自家製のチャーシューや、
明太子を送っているとおもう。

川西家からは、段ボールいっぱいの「柚子」や
「牡蠣」をいただいた。


「柚子」はすべてわたしが皮をむいて、
いま冷凍庫に保管している。
川西家の別荘には、
柚子の木が一本あって、そこになった柚子は、
毎年、拙宅に送ってくれていたのである。

 川西さんは、わたしの短歌の仲間であり、
人生の先輩であり、毎夏、遊びに行っても、
こんなわたしを歓待してくれるゆいいつの方であった。
わたしなどに、とてもよくしてくれていたのだ。

 広島の高級住宅地のほぼまんなかに
ひときわ大きな豪邸があり、
そこが川西家である。
広島駅のカープタクシーに乗って
「向洋の川西さんち」って言えば、
それだけで彼女の家に着けた。

 庭には水深二メートルの池があり、
所狭しと錦鯉が泳いでいる。
年にいちど、新潟の田んぼまで運んで、
そこで数か月泳がせていると色がよくなる、
というので、たまに錦鯉は留守をした。


「三頭、帰って来んのよ」と川西さんは、
笑いながらそう言っていたのをおもいだす。
訊くところによると、この鯉、一頭、数百万円するそうである。


「わかいころは苦労したわよ」と車で食事に出かけたとき、
いちどだけ、そう言われたことがあった。
彼女の生家のちかくをとおったときのことだった。


 川西さんにとって、苦労という言葉とは、
無縁な人生だとおもっていたので、
ぎゃくにわたしの脳裏には、
それが、ひどくのこる一言だった。

よい伴侶を見つけたのだろう。
そういう幸福をおのず手に入れる
運命のひとがいるということだ。


 わたしの毎夏の休暇というのは、
この広島の川西家におじゃますることだった。

というより、一年でいちどきりの休暇は、
広島の夏だけであったということだ。


いつも三泊くらいおじゃました。一階の大広間にひとりで寝た。


「一階に泊めるのはあなただけよ。
普通のお客さんは二階にあがってもらっとる」

そう、川西さんは言っていた。


 大広間には、屋久島からとりよせたという
大杉の一本木でつくった箪笥やテーブルが
その風格を見せている。

じつは、十数年間、毎夏おじゃましている川西家だったが、
いちども二階にあがったことはなかった。
だから、二階の間取りをわたしは知らない。

 ガレージには、ベントレーという車と
マツダの車が停まっていて、
ご主人は運転手さんに呼ばれて、
毎朝、犬とともにベントレーで会社に向かわれた。


「わたし、あの車きらいよ。音がうるさくて」
と、よく彼女は言っていた。


 彼女は、朝からビールを飲んでいた。それが朝食だという。


 たまに、イタリアから娘さんが戻ってきていた。
半分、イタリア人の血を持つお孫さんもいっしょに。
(この孫二人が、日本語とイタリア語を
まぜこぜにして、なかなかうるさいのだ)


 娘さんは父親似なのか、
わたしよりも背が高い。
声も、わたしより低い。もうしわけないけれども、
見た目、性別がわからないほどである。


「きょうは、昼『お好み』に行きます」と、娘さんが言うので
「広島風お好み焼きですね」と、わたしが言うと、言下に
「お好みです!  広島風はありません!」
と、強い調子でたしなめられた。まずいことを言ったものだ。


「イタリアでは、マグロを一頭買うてくるんですわ」

「へぇ。どうするんです」

「家でさばいてパーティするんですよ。近所を呼んで」

「ふーん。ただで?」

「いえ、会費取るんですわ。儲かりますよ。
けど、台所が血だらけですわ」
と、娘さんは笑う。


「豚も三家族で一頭飼っていましてね、
それを庭で解体するんです。
ソーセージ作ったり、チャーシューにしたりするんです」

「へぇ、すごいですね」

「はいぃ。でも、庭が血だらけですわ」

とにかく、豪胆な女性である。
川西さんのどのDNAを引き継いだのか、よくわからない。

 娘さんのほかにも息子さんが
二人いらっしゃるはずだが、
あまり、わたしどもとは接触がなかったので、
話をする機会もなかったが、
どちらかの息子さんは奥田民生の親友らしい。

川西家の別荘に行ったときは、
息子さんたちが、バーベキューをしてくれたりした。


 大峰山の斜面半分くらいの敷地が川西家の別荘で、
「まにまに荘」と名付けられていた。
一階には、サウナがついていた。


 ご亭主は、別荘のなかに川が流れていて、
そのうえに、あずま屋を建てるのが夢だったそうで、
その夢どおりに、川のまんなかにあずま屋があり、
そこで食事もできるようになっている。


 別荘には二十人くらいが泊っても
じゅうぶんな広さであったが、
この山の公園に、
師匠の甲村さんの短歌の碑を建てる企画を川西さんがたて、
そのために、「まにまに荘」のうえに、
もうひとつの別荘
(「あかげら荘」と命名)を購入、
わたしども関東人を招待してくれたこともあった。
あかげら荘には、露天風呂も新設されていた。


たった、一日だけ、わたしどもを呼ぶために、
別荘を買い、マイクロバスをチャーターし、
食事を用意し、すべて、妻のためなら、ご主人は、
いやな顔ひとつせず、それに協力されていたようである。


 裕福という言葉があるなら、
川西さんのためにあるようなものだと、つねづねおもわされていた。


 去年の年末、わたしがひさしぶりに電話したとき、
「冬の広島はええよぉ、遊びにおいで」
 と、やさしく川西さんは言ってくれた。
「行けたら行きたいですって、ありがとう」
わたしはそうあいさつをして
電話を切ったのだが、はたして、あれはいつだったのだろう。


 年の暮れということは覚えている。
でも、亡くなったのが二十六日。

わたしは、ひょっとすると、
その日の朝、電話したのかもしれない。あるいはもっと後か? 


わたしの記憶も定かではないが、
電話したのは、大晦日に近い日だったことはたしかである。
ひょっとすると亡くなっていても川西さんは、
電話に出られたのではないだろうか、
そのくらいのことはあるかもしれない。


いま、ご主人からいただいた手紙を拝見し、
末筆に、息子さんの自筆で
「仲良くしてくださり、本当にありがとうございました」と
添えられており、
胸が熱くなるおもいがした。


仲良く、なんてとんでもない。

店の冷蔵庫をあけると、
ささやかに柚子のかおりがする。
去年送っていただいた柚子である。


 その柚子のかおりを嗅ぐと
「冬の広島に遊びにおいで」
わたしのすぐ耳もとでそんな声が聞こえてくるようである。


 川西安代様

 ご冥福をお祈りしたします。
                         合掌