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店主日記

建礼門院

 平清盛の娘、徳子とはどういうひとだったのか。

 

清盛が平氏の棟梁となって二年後の
1155年、徳子はうまれた。

 後白河法皇の子である、高倉天皇に
入内したのが17歳のときで、
天皇わずかに12歳である。

 

 清盛の権力と朝廷の権力との
融和によって、至高の権力を掌中におさめる
という両者のおもわくがかなった
入内だったという説もおおいに説得力がある。

 しかし、徳子になかなか子ができず、
ようやく7年後に懐妊。のちの安徳天皇である。

 

 男子が生まれたので、
清盛は、反乱をおこし後鳥羽法皇を鳥羽殿に幽閉、
すぐそののちに高倉天皇は安徳天皇に譲位し、
高倉天皇は、院政をすることになる。

 

 天皇の子をもつと、
いわゆる国母となった徳子には、宮中の門の名前があたえられる。
それが建礼門院である。

 

 建礼門は、宮中の中心にある
すこぶる荘厳な門である。

 が、そのころから、平家打倒の機運たかまり、
以仁王の挙兵とか、いまの安倍政権のように
あやうい事況なってきたのだ。

 おまけに、高倉上皇も身体を悪くし、
ついに1181年、21歳の若さで崩御する。

 

 それから三ヵ月後に、清盛が熱病で亡くなる。

 これによってますます平氏の権力はなくなってゆく。

 つまり、徳子はこの数ヶ月で夫を亡くし、
実父を失ったということである。

 

そもそも、権力と金と情報は蕩尽するもので、
しだいにゼロにむかうのが、社会学的な常識だから、
いずれ権力はすたれるものなのである。

 

 木曽義仲の挙兵によって、ついに都をあとに、
平氏一族は壇ノ浦まで逃げてゆくことになるわけで、
権力の中枢から国賊へといっしゅんにして
なり落ちてゆくわけである。

 いまの山口県壇ノ浦の海流はうねるようであり、
潮流のはやさは瀬戸内の鏡のような海とはちがう。

 

 いわゆる兵糧攻めとなった平家一門、
まずは水がない。海水を飲まんとすれば、
「火の如し」と平家物語は語る。

 ついに、これまでと、平家のつわものどもは、
みな、壇ノ浦の藻屑と化するのだ。

 

 

 実母である二位の尼は、すでに覚悟をきめており、
喪服二枚を着、安徳帝を抱き、
「海の底にも都がございます」と、
千尋の底に沈んでゆく。

 安徳天皇8歳であった。

 

 

その後を建礼門院も追い入水するのだが、
徳子だけは、源氏の侍に引きずりあげられ、
一命をとりとめることになる。

 入水したもののなかで、すくいあげられたのは
彼女だけである。

 いま、まさに、彼女は、母とわが子とが
死んでゆくのを目の当たりにしたばかりである。

 

 夫を失い、父を失い、こんどは母とわが子を失い、
そして平家一門も失った瞬間であった。

 

 

 サバイバーズ・ギルドという語があるが、
むしろ生き残ったほうが不幸、という意味である。
ホロコーストから逃れたユダヤ人や、
太平洋戦争から還ってきた若者が、
ぎゃくに「よく還ってきたな、みなを残して」
とか、まわりから言われる、などがその例であるが、
彼女ははたして
どうだったのだろう。

 


 建礼門院は、そのあと、
京都につれられ、八坂神社の後方にある
長楽寺で尼にさせられる。

 記録によれば、源氏の武士たちが、
熊手で彼女の髪を切ったとあるが、さだかではない。

 

 このあたりの行動は、
天台座主、慈円の兄である九条兼実の指示らしい。

 兼実は、建礼門院の処遇として
比叡山のふもと2キロにある大原の
寂光院で余生を送らせることにした。

 かんたんに言えば、幽閉、人質ということである。

 

 

 しかし、不思議なことは、
2000年5月、この寂光院がなにものかによって、
放火され、焼失している。
また、2008年5月、長楽寺も、なにものかによって、
放火、そのほとんどが焼失した。

 この5月という月は、偶然なのか、
あるいは、なにかの怨念か、まったくわからないが、
このことを問題にしているひとがいない、
というのも問題のような気もする。
なにゆえ、建礼門院ゆかりの寺が焼失するのだろう。
わからない。

 

 

 そして、建礼門院は、大原寂光院で平家の菩提を
弔いながら暮らすことになる。

 

59歳で亡くなるまでおよそ30年をである。