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店主日記

携帯電話

携帯電話ほど現代において画期的な道具はないだろう。
とくにスマートフォンは
ほとんどパソコンとおんなじ機能であって、
つまり、手のひらから全世界に通じているわけである。
言い換えれば、みずからの指の先が中心となって、
無限大に宇宙とつながっているのだ。

知己の人々とも、まだ見ぬ友人とも、
レアル・マドリードの試合とも、
イチローのヒットとも、世界で起きている事件・事故とも、
リアルタイムにつながっているのである。

ようするに、携帯電話を作動させれば、
ひとはひとりではなくなるのだ。


 病院の待合室。
いつ呼ばれるかわからない、あの疎外感にも似た

退屈で空疎な時間と空間。
しかし、携帯電話を取り出し膝の上でさらさらっと
「なにか」をしていれば、押し迫ってくるようなあの陰鬱な空気も、
そこに流れるうっとうしい時間もすっかり忘れることができる。

いや、すでに、病院にいることすら
忘れることができるのである。


 携帯電話は、このように重圧を感じるような現場や
「不承不承ここにいる」という自己意識から、
自分自身を抽象的な「場」に変える力を偶有しているのである。


 教室に居ながらスマホをいじっている生徒は、
すでに教室にいない。
パーソナルなグローバル化が現前されている、
が、その反面、すでに「個」は個として成り立っておらず、
グローバルという幻想の中にみずからの立ち位置を置き換え、
日常生活を希釈させていることになる。

 

 

わたしが二年間つとめていた、神奈川でもっと偏差値のひくい高校は、

休み時間になると、男女が抱き合っているか、携帯をいじっているか、

の二組に分かれていた。バカほど携帯をいじるのだ、ということを

わたしはあのとき実感した。

 

 ちなみに、バカほど、「常識だろ」と言うこともそこで知った。

われわれは、あるイデオロギーを常識ととらえている

偏見の時代を生きている、などということを

まったくわきまえていないやつほど「常識だろ」という。

 彼ら、彼女らは、しょっちゅう「常識だろ」を言っていたが、

「常識がないから、この学び舎に来たのだ」ということを

彼ら、彼女らはすっかり抑圧していたのだろう。

 

携帯電話の話にもどぜは、この装置は、
ようするに、地に足がつく、
というリアリティを崩壊させ
現実を形而上的浮遊空間にさせてしまっていたのである。


 江戸幕府が終わったとき、徳川家は、
いままで農民に租税で苦労かけたから、
これから徳川は農家になれ、といまでも徳川さんは農業を営んでいる。

地面からのメッセージを身体で受け止め、
地面と共に生きている。地に足がついているというのは、
体内記憶にある原始からの信号を
インプットしていることなのかもしれない。


 いま、わたしたちには、こういうプリミティブさ、
つまり、どこに立って、どうやって生きているのか、
それを実感するというこの一点が、
もっとも欠けているのではないだろうか、とわたしはおもう。


 一日くらい、携帯電話の電源を切って
現実に生きてみたらどうか。

せめて、シルバーシートに座っているときくらいは。