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店主日記

星飛馬のごとく

 ある青年から

「街を歩くと水銀灯が消える」と

相談されて、よく話をきくと、

歩くたびに、街のあの高いところから煌々と照らす

水銀灯が軒並み消える、というのである。

 

 霊がとおると電化製品に影響を与える、

という話はよくきくが、街の水銀灯である。

 

 前代未聞、稀有な話で、さて

どうしたものかと、ヒカの母親の清美さんに

メールをしたら、

「せんせいが、見てあげればいいじゃない」

との返事。

 

 わたしは、あんまり気が乗らなかったが、

青年の霊道である左肩甲骨を押してみた。

 

と、かそけき信号ではあるが、

わたしには、首吊りをしている兵隊さんが

見えたのだ。

 

 しかし、これはほんとうに「かそけき」もので、

その見えたものが正しいのか、否か、

はっきりしなかったが、

もし、それが、ほんとうなら、もう兵隊さんは

青年にはおらず、わたしに憑依したということになる。

 

 翌日は、土曜日だったので、

わたしは鎌倉の長勝寺にでむいた。

 

 朝の勤行に参加するためである。

 

 長勝寺は、磁場の強い場所で、

そこの勤行に参加すると、背中に憑いたものが

けっこう抜けるので、三十分の読経のあとは、

風呂上りのような爽快感がのこるのである。

 

 九時前に寺に着くと、すでに

清美さんとヒカが待合室にいた。

 

 ヒカはわたしを見るやいなや、

すこし笑って「せんせい、兵隊いるね」と、

わたしに言った。

 

「だよな」

 

「うん、緑の服着てる」

 

  ヒカは、霊感だけは人一倍あるのだが、

言葉をしらない。これは、緑ではなく、

カーキー色なのだ。

 

 つまり、わたしが昨晩みた兵隊さんと

おんなじ兵隊さんを彼女はわたしの

背後に見ているのである。

 

「ひとりで戦地から帰ってきて、

戦友はみんな死んじゃったんだって。

恋人もいたのに、生きていかれなくって

自死したのね」

と、ヒカはわたしの背中と会話していた。

 

「首吊りだろ」

 

「いや、それはわからない」

 

 わたしの見た青年と、ヒカの見た青年と、

すこし姿がちがっているらしい。

 

「あ、もうやめた、これ以上かかわると、

わたしのほうに来ちゃうから」

 

 え、ということはやはり

わたしに居座っている、ということである。

 

 

 九時から、如来寿量品、第十六がはじまる。

法華経である。

 

 わたしどもは、ありがたいお経の功徳を

受けたあと、そのまま鎌倉駅まで歩いて帰った。

 

 と、ヒカがうしろから

「せんせい、兵隊さんとおんなじ歩きかたしているよ」

と、言った。

 

「は」

 

 わたしは、知らない間に、恋人を持ちながらも、

死を選んだ青年が、わたしの行動を支配していることに、

とても静かな驚きをもって知らされることになったのだ。

 

 長勝寺でも、青年の魂は落ちなかったのである。

 

 それから、わたしは、この青年と二人三脚の

暮らしを、しばらくのあいだ、強いられねばならいことになった。

 

 じつは、翌日の日曜日に、梶ヶ谷にある、

身代わり不動にいって、そこでも、事情を話して、

読経に参加しているのだが、それでも

効果はなかった。

 

 

 それからまもなくである。

 

 わたしが、月曜日がゴミ回収日なので、

前の日の日曜日の深夜、

店長のオートバイを借りて、ゴミを捨てに出かけたのだが、

ゴミを捨てて、バイクをふかしたところ、

原動機付き自転車、つまり50ccのスクーターだから、

馬力なんかあったもんじゃないのに、

いざ、スロットルを回した瞬間、

「だれかがわたしの襟首をつかんで引っ張った」

ような気がして、バイクは空中に飛んでいったのである。

 

 これを専門的には、ウィリーという。

 

 そのときは、「だれかがわたしの襟首をつかんで引っ張った」

ということはおもいつくわけではなく、

首根っこをつかまれた感触が残っていた、ということを

事後的に気づいたというのが正しい。

 

 気が動転していたのだ。

 

 つまり、スクーターは宙を舞って、

道の真ん中に飛び出してゆき、

わたしは、そのまま地べたに叩きつけられた。

 

 

 わたしは、左肩からアスファルトの上に

落下したものだから、その激痛たるや、

文字にあらわせるものではない。

 

 左腕がうごかないのだ。頬が地べたにくっついている。

 

 わたしは、倒れたバイクを直し、

まず店に行き、事の事情を店長に説明したあと

いそいで、荏原病院に向かった。

 

 日曜日の夜中の十二時過ぎである。

息子に運転してもらって、わたしは、ずっと、

左肩を押さえて辛抱した。

 

 急患の待合室は一階にあり、

わたしは二番目に往診を受けられることになったので、

息子はさきに帰らせて、わたしは、

待合室の長い椅子にもたれながら激痛に耐えた。

 

 その長い椅子には、ヘルメットがひとつ置かれ、

その向こうでは、家族らしきひとたちが腕を組んで、

その輪のなかの、ひとりのサラリーマン風のひとが

しきりに頭をさげている。

 

 わたしは、処置室では、どんなことが起きているのか、

だいたい事情は察した。

 

 そして、そうとう待たされることを

わたしは、覚悟したのだ。

 

 そこへ、ぐだっとした子どもつれた母親が

わたしの横に座った。

 

 一時間くらい待たされただろうか、

まだ、オートバイ事故は処置室から出てこない。

 

 わたしは、つらそうな顔つきの子どもを

抱えている母親にむかって「救急って書いてありますが、

ひとつも救急じゃないですね」と声をかけた。

 

 そのわかい母親は、しずかにうなずいた。

 

 あんまり、待たせるし、痛みがどんどん増すし、

覚悟にも限界があり、

わたしは、ついに受付のところに行き、

看護婦さんを呼んだ。

 

 奥から出てきた看護婦さんにわたしは、

「すみません。待っていられません。

救急車呼んでください」と頼んだのだ。

 

 救急病院で救急車を頼んだ患者は、

ひょっとするとわたしだけかもしれない。

 

 しかし、それほど、わたしの痛みは

尋常ではなかったのだ。

 

「もうしばらく、お待ちください」と、

看護婦さんがすまなそうな顔つきで言うものだから、

わたしはがまんした。がまんするしかなかった。

 

 しばらくして、車椅子に乗った青年が、

ミイラ男のように包帯をぐるぐる巻きにされ、

足にはギブスのようなものがはめられ、

出てきた。

 

 かれは一命はとりとめたのだ、とおもった。

 

ようやくわたしの番である。

 

「どうしました」

 

「はい、バイクが横転して。左肩が」

 

 と、いうことですぐにレントゲンを撮り、

十分くらい待たされて現像されたものを見ながら

ドクターが、

 

「ああ、鎖骨の骨折ですね」

 

「あ、やはりそうですか、せんせい、かなり痛いんですが」

 

「それは、骨折ですから痛いでしょう」

 

「痛み止めをだします」

 

「それは、精神ブロッカーですか、たんぱく質ブロッカーですか」

と、わたしが訊くと、

「いや、そんなむつかしいものじゃありません」

と、ドクターは答えた。

 

 わたしは、痛み止めには、精神ブロッカーと、

たんぱく質ブロッカーの二種類があると聞いていたので、

ただ、それを訊いただけなのだが、

そんなにむつかしくもない痛み止めもあるのだと、

認識した。

 

 そのあと、わたしは、大リーグ養成ギブスのようなものを

猫背も治るくらいぐいっとわたしの背中のほうで、

絞めつけられた。。

 

 人生で鎖骨の骨折ははじめてだったので、

知らなかったのだが、鎖骨骨折は、

折れたところをギブスによって

自力で再生しなくてはならなかったのだ。

 

 そして、ランドセルのような肩あてを

ぎゅっとされるのはいいけれども、

これは、けっしてひとりでは緩められないのだ。

 

 だれかの援助がなければ、

この養成ギブスははずせない。

 

 いわゆる介護生活である。

 

「せんせい、これからなにか生活で

注意することはありませんか」

と、わたしはきれぎれの声で訊くと、

「痛いほうを下にして寝ないでください」

と、言う。

 

・  ・・そのとき、わたしは、

きっとこのひとは、わたしをバカにしているのだということを、

うすうす感じた。

 

 月曜日から、通常の仕事である。

横浜の高校には、朝の七時に行かねばならないし、

予備校には、その当時、津田沼に行かねばならなかった。

 

まったくおんなじ生活を強いられるが、

背広の下には、星飛馬顔負けのギブスを装填しているのだ。

 

 そして、この骨折は半年間、わたしを苦しめた。

ほとんど骨がくっつかなかったのである。

 

 これが、あの兵隊の怨念なのか、

あるいは、このあいだ亡くなった校長の恨みなのか、

まったくもってわからないが、

わたしは、寝るときも、風呂につかるときも、

また、朝早く起きるときも、いちいち、

このギブスをナナコの母にぎゅっと締めてもらったり、

取ってもらったりせねばならなかった。

 

 そのたびに、背中で、妻の舌打ちのような、

あるいは、ため息のような声を

聞き続けることになるのである。