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店主日記

ホワイトデー

 仕事がはやくおわったので三階にあがってみる。

 

 もうすぐ出産予定のむすめも我が家にもどっているはずなので、

その見舞いをかねてである。

 

 わたしを見るや、床にどかんと座っていたむすめは

「顔、やば。影ができてるよ」といった。

 

 むすめの母は、その奥で

印象派の横たわる裸婦のような恰好でわたしを見ている。

見ている、というより、むつかしく言えば「睥睨」にちかい。

ようするに、招かれざる客、といったところだ。

 

 

たしかに、体重が落ちて頬がこけたのは

まちがいなし、生徒からは「末期癌」とかいわれている。

 

 ついこのあいだ、その生徒の話を

むすめの母に話したら、彼女はすこし笑っていたが、

むすめの方は「笑えない」と真顔であった。

「検査しているの」とも言われた。

 

 やはり、どこかおかしいのかもしれない。

快眠快食、どこも痛いところも痒いところもないし、

血圧の薬すら一錠へらしたくらいだから、

五体満足、健康なのだとはおもうのだが。

 

 

 このあいだ、庶民、低層階級の味方ユニクロの

黄色のフリースを着ていたら

「なんで顔色が悪いのにそんな色着るの。

ユー君に買ってあげたような紺色にすればいいじゃない」

と、ユー君の奥さんの母、つまりわたしの妻が、

わたしにそう言っていた。

 

 わたしは、どうも三階にあがると、

不健康の権化のようにおもわれているらしい。

 

 と、そのとき妻がにわかにわたしのほうに近寄ってきて、

「ホワイトデーのお返しなんだけれど、

このあいだのはいらないから、マジドゥショコラの

チョコレートサンドにしてくれない。

チョコレート返しでいいから」

と言う。

 

 わたしは、マジドゥなんとかを知らないし、

それがどこに売っているのかも知らない。

もうひとつ、むすめの母の言う「このあいだ」というのは、

去年のわたしのホワイトデーの「彩香の宝石」を言っているのだ。

 

「彩香の宝石」は、埼玉県さいたま市にある、

ゼリー専門店で、日本でも有数の店である。

 たまたま、それを知ったわたしは、

わざわざ車で、首都高速三号線から五号線、

外環道をぬけ、浦和までの37キロメートル、

およそ一時間三十分かけて「彩香の宝石本店」までゆき、

そこで、妻とむすめ二人分のゼリーの詰め合わせ

都合三箱を購入してきたのである。

 

 が、だれひとり、それを喜ぶものはいなかった

ということである。

 

 買い物というのは、想像力である。

きっとこれを渡せば、相手が喜ぶだろう、

そのささやかな想像力こそが、

プレゼント行為の動機付けである。

 

 だから、たとえば、クリスマスに、

「なにが欲しい」などと子どもが枕元にメモをするのは、

あれは、にわかサンタクロースにとっては、

楽チンであると同時にひとつの愉悦を奪う行為であると、

わたしはおもうのだ。

 

 そして、妻は、自由が丘の「マジドゥショコラ」の

焼き菓子がいいと言ってきた。

彼女は、いつ買ってきたのかしらないが、

その店のショコラタルトをわたしの前にぽんと置き

「もうゼリーはいらないから、これとおんなじの、ちょうだい」

と、言うのである。

 

 それは、とりもなおさず、

「お前の買ってくるものはろくでもないし、おいしくもない。

どうせくれるのなら、わたしの好きなもの、それにしてね」

という宣言である。

 

 たしかに、「何がほしい」と言われれば、

楽チンであると同時に、しかし、ひとつの愉悦を奪う

行為なので、わたしとしてはおもしろくない。

 

 それはとりもなおさず、

ホワイトデーのプレゼントでもなく、

想像的買い物でもなく、

ただの、初老の親爺の「お使い」なのである。

 

 ね、酒屋さんで醤油買ってきてくれる、

と言われているのとかわりない。

 

 たしかに、バレンタインデーもホワイトデーも

ついでに恵方巻きも、ハロウィンも文化的ではないと

わたしはおもっているし、

それらは、大企業の戦略的な擬似文化だから、

その波に乗るのに、想像力もあったものではなく、

それは、たんなる「お使い」でもいいかもしれないのだ。

 

 

 ちなみに、文化とは、日本古来から伝統的に

保持継承されたものをいうのであり、

たとえば、相撲とか歌舞伎、能や狂言、

地域の祭りや工芸品などなど、それこそが

文化であり、バレンタインデーとか恵方巻きとか、

あれは、高度資本主義の勝ち組のプロデュースした

破壊的な擬似文化にすぎない。オプションである。

 

 文化は、伝統を守り、それを継承し、

カタチをくずさず保存しなくてはならないから、

過去に倣うものなのだが、いまの

バレンタインデーにしろ、ハロウィンにしろ、

関西発の恵方巻きにしろ、日常を壊して、

大企業が、そこにその行事を埋め込んできたわけだから、

それは「日常破壊」以外のなにものでもない。

 

 破壊というのは、文化ではなくむしろ文明である。

文明は、たとえば大河の砂漠地帯を壊しながら、

そこにニンゲンが築き上げてきたわけで、

分節のしかたをかえれば、まさしく「破壊」となる。

しかし、それらを文明とよぶのにも

抵抗があるのだ。だから、破壊的文化とでも呼ぼう。

 

 Akb48が㈱電通によってプロデュースされたように

いまの文化的なものたちは、ほとんど、

この破壊行為によってわれわれの日常を切り裂いて

暴力的に入り込んでくる。

 

 そして、そのしかたにわれわれは無自覚である。

 

 じつは、その根底には感情の劣化がある。

 

 われわれは、いま世の中のなにがおもしろいのか、

すでにわからなくなりつつある。

 

「いま、あなたは不幸ですか」と訊かれ、

「そうです」と答えるひとは少ないとおもうが、

「いま、あなたは幸福ですか」と訊かれ、

「そうです」と答えるひとも稀であろう。

 

 それは、みずからが、みずからの意思で、

ちゃんと生きていないことの傍証である。

 

 感情の劣化は、卑近な例でいうと、

お笑い番組をみれば一目瞭然である。

 

いまバラエティ番組のことごとくが、

芸人の芸の合い間に、他の芸人の笑うしぐさが

数秒オンエアされる。

 

 エレキテル連合の「だめよ、だめだめ」のあいだに、

何回、岡村の笑う姿が映し出されたか。

わたしたちは、芸の本質で笑っているのではなく、

芸をしているまわりの芸人の笑う姿に、

後押しされて笑っているのだ。

 

 あの芸人が笑っているので、わたしも

笑っていいのだ、という感情が心の深奥に芽生えている。

 

 好意的にもうせば、ある芸の芸を、

他の芸人と笑いを共有している、ということである。

 

 落語という、ほんとうの芸がテレビから

ことごとく消滅して、いまでは「笑点」だけが

残存しているのは、落語という芸能が

他者の愉悦を借りることなく成立していたはずだが、

すでに、われわれ「個」だけでは、

そのおもしろさに到達できなくなっている

証しなのではないだろうか。

 

 感情の劣化は、こうした笑いの文化にも

波及していて、とどまるところをしらない。

 

 そんなこんななのだから、

たかがホワイトデーの行事参加に

目くじら立てて、筋をとおさなくてもいいかなって

そうもおもうので、

たぶん、わたしは、妻やむすめの好むお菓子、

リクエストどおりの外国かぶれの甘味ものを

購入することになるのだろう。

 

 それで、みんなが喜ぶのだから

じゅうぶんではないか。

 

 しかし、買い物にまで指定される夫、

というものはどういうものなのだろうか。

 

 それは、ひょっとすると「機能面のみを基調とする家族」に

なりさがってはいないだろうか。

「機能面」が中心になっている家族とは、

お父さんは給料を届けてくるひと、

お母さんは家事をするひと、

子どもは学校にいって勉強するひと、

という役目だけが、生活の中心になっている家族をいう。

 

 ほんらい、家族には「祈り」が必要なのだ。

お父さん、気をつけて行ってきてね。

お母さん、元気でいてね。

無事、学校から帰るんだよ。

こんなささいなことでもいい、それが「祈り」である。

 

 この「祈り」のある家庭は、

多少の災難でも、みんなで力をあわせ、

それを乗り越えてゆくだろう。

 

 「機能家族」は、ひとつでも荒波にもまれると、

そこで崩壊するかもしれないもろい集合体である。

そして、機能不全になったメンバーへの合言葉が

「役立たず」である。

 

 もし、わたしの家庭がそうなっていたら、

とおもうと、すこし寒気もするのだが、

「笑えない」といったむすめや、

「顔色がわるいから黄色の服はやめろ」といった

妻に、多少の「祈り」が含まれていることを

願うものである。

 

 どうかな