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合わない

 予備校にかよっている生徒さんは

その授業に参加することも自由だし、

その授業をリタイアするのも自由である。

 

 なぜ途中で、その授業をやめるのか、

その理由を問うと、「合わないから」という

答えがおおい。

 

「合わない」とはどういう意味だろうか。

 

 「合わない」は「合わせられない」と同義である。

が、「合わせられない」という発想はかれらにはない。

 

なぜなら「合わせようとしない」からだ。

 

たしかに「合わない」と「合わせられない」と

おんなじ意味なのだが、決定的な相違がそこにはある。

 

それは積極性である。

 

「合わない」とほざく生徒は、じぶんから

能動的に動いていないのだ。

「合わせられない」は、すくなくても

「合わせよう」とする意志があり、

能動性がみられる。

 

この違いこそ、現代人のすがたを象徴しているのだ。

 

いまの若者、というとまた語弊があるかもしれないが、

かれら、彼女らは、じぶんの場から離れようとしていない。

 

どしんと座ったままで、与えられるものを享受する、

という姿勢である。

 

それは、たぶん高度文明が生み出した負の遺産のような

気もするが、じぶんから何も動かずとも

必要とするものはおおよそ与えてくれる環境が

かれら、彼女らには準備されているのだ。

 

だから、動かなくていい。

 

ちょうど、幼子がテーブルに座って

ナイフとフォークを両手にもって

「まだ? まだ? 早くぅ お腹すいた」と、

そのテーブルをガンガン叩いている光景と

おんなじようだ。

 

与えてれるものを待っているのだ。

 

それが、かみ合わないと「合わない」となる。

 

わたしは「合わせろ」と言いたい。

すくなくとも君らよりも何年も生きてきて、

そのノウハウもはるかにあるものから

学べよ、と。

 

学ぶという語は「真似ぶ」から成り立っている。

「真似ぶ」には能動的なふるまいが付随するではないか。

こちらから進んで真似しようとするのだから。

 

「合わない」という生徒は

学んでいるのではない、真似をしているわけでもない、

選んでいるのだ。

 

そんなじぶんの座に居座って、

与えれるものを受けるだけの

いわゆる受動態の姿勢のものは

そのコクーンの中に納まって

その領域から一歩も踏み出さず、

その枠内でのもっとも利得を得ようと

そこに必死になる。

 

こういう事情を「コストパーフォーマンス」という。

 

「コスパ」という語は、

能動的なふるまいのない、

じぶんのテリトリーのなかにおさまって

最高の「得」をかんがえるものたちの

象徴的なことばなのである。

 

にんげんの進歩発展の原動力は

好奇心だという。

 

なぜ、森を出たのか、なぜアフリカから出たのか、

それは好奇心が前段にあったという。

 

いまの若者に欠けているのが

この好奇心だということは自明である。

 

趣味がない、希望がない、なんて生徒

わりにいるのである。好奇心がないとそうなる。

 

趣味といっても、映画鑑賞、音楽鑑賞、漫画

すべて受け身の趣味ではないか。

 

2時間、映画を見て、「なんかつまんなかったな」。

これ「合わない」とおんなじ図式じゃないか。

 

受動態でもいいが、せめて、あのシーンはよかった、

とか、積極的にいいところを見つけるのも鑑賞のひとつだろう。

 

わずかなところでいいから、

映画でも音楽でも、はたまた授業でも

そこからじぶんの足しになるようなことを

探し出すというささやかな積極性をもったら

どうだろうか。

 

人類の進歩にひょっとするとすこしは

つながるかもしれない。

 

 

「合わない」じゃない「合わせろ」、

わたしはそれがいいたい。

 

 ご飯を待っているのではなく、

食材をさがしに出かけろ、

わたしはそれがいいたい。