国語の入試問題のはなしである。
だから、とうぜんおもしろくないはなしである。
わたしは国語にかかわって50年になる。
大学生時代からの計算だ。
大学院時代から教師をしており、
また、塾の教師もこのころからはじまったので
半世紀を費やしてき、家族もこれで支えてきた。
が、性格なのか、運命なのか、
教師生活を送り出してからというもの、
だれかから教わったという事実がない。
月の運行の事情については
予備校の渡辺という先生からおそわり
目からうろこのような体験をしたが、
それ以外、記憶にない。
つまり、大学時代はべつとして
わたしに「師」というものがいないのだ。
じゃ、どうして教授法を案出したかといえば、
わたしの「師」はセンター入試なのだ。
センター試験というものは、
選択肢が「あけすけ」で、ここに注意しなさいよ、
というかそけき教えが、そこに見えているのである。
たとえば「心づくしげなる秋の空」の「心づくしげなる」の
設問で、2択にまでせまるのだが、はたしてどっちだろう。
①じゅうぶん心にかなうような
③物思いの限りを尽くさせるような
どちらも、おんなじようにみえるのだが、
「げなる」は形容動詞をつくるので、意味的には
他者にむかって発する語である。
つまり、「うれしい」は自分の心、「うれしそうだね」は
他者に向いている。形容動詞は他者に向かって語る語なのだ。
それをかんがえれば、「心にかなう」は
じぶんの心の様子であり、「尽くさせるような」と言えば、
他者への気持ちがあらわれる。
だから、答えは③なのだが、つまり、
センター入試は、形容詞や形容動詞は、じぶんに向けての語なのか
他者に向かっての語なのか、それを受験生は
理解しなさいよ、と、この設問が教えくれている。
一事が万事、センターはいたるところに
このような「かそけき声」が語られていて、
わたしは、それを落穂ひろいのように
こつこつ拾ってきたにすぎない。
予備校の女の先生に、じつは、
この設問の解き方を訊かれたことがあった。
えらいよね、恥も外聞もなく、訊いてくるという姿勢。
だから、この事情、相手が専門なんで、
主体表現と客体表現の差ですよ、と教えたら
「そこまで教えるんだ」とおどろいていらしたが、
ま、あたりまえだろ、とその時はおもった。
そういう歴史のなかで、
わたしは、じぶんの教授法というものは、
べつにじぶんで案出したものではなく、
センター入試が語っていることを、ただ、
受験生に伝えているだけなのだ。
センター試験こそがわたしの師であり、
その師の語ることをていねいに伝えているという
だけなのである。
が、そんなことを50年近くしていると
他の国語科の教員からは、なんか
蔑視されているようで、ふん、お前のいう言なんかよ、
みたいな空気をここ何年も味わってきた。
そもそも、現代文でも、
学校の現代文とちがって、入試に現れる本文は
ことごとく悪文である。
頭脳明晰のひとの悪文である。
よくしらないが、ハイデガーというひとの
文章は、先輩のヤスパースさえに、「君、もうすこと
簡単に書けないのかね」と言わしめたというのだから
頭のいいひとは、難解な文、いや、悪文を書くものなのだ。
鷲田清一さんとか坂井直樹さんとか、
文章がうまいのではない、下手なのである。
そんな文章を読まされる受験生も気の毒だ。
だが、そこに設問をつくっている教授がいる。
その教授が、作者に負けないくらいの変哲なひと
だったら始末にわるい。
作問者が本文の作者を「くん」づけするような
ひとが問題をつくるとたまったものではない。
「ああ、内田くんか、かれのこの箇所は
わしならこう捉えるぞ」とかおもわれると
本文と設問の内容がまったくべつものにみえてくるのだ。
たとえば、ロバートキングマートンというひとが
「準拠集団」という概念思考をうちだした。
マートンの造語である。
「準拠集団」とは
「じぶんの人格を形成させてくれた場所」のことである。
「きみはどこでじぶんが出来上がりましたか、
家ですか、学校ですか、部活ですか、コミュニティですか」
という問題提起が準拠集団である。
が、宮台真司という、
日本を代表する社会学者は
この「準拠集団」の説明を
「頭の中で心がリファしているロールモデル」と
説明していた。
はたして、入試問題で、「準拠集団」に傍線が
ほどこされ、「頭の中で・・・」を
受験生は答えられるだろうか。
だから、わたしは、生徒に
現代文は「二人の人格との対峙である」と説明している。
一人は鷲田清一、一人は宮台真司のように
作者と発問者、このふたりと向き合う、
これが入試なのだ、と。
師のいないわたしにとって
目のまえにわたされた入試問題を前に
どのような仕掛けがあるか、
これを概念思考することがわたしの
仕事になっていった。
たとえば、
ある女性が人里はなれた荒れた宿に
女房達をひきつれてひっそりと籠っている場面である。
そこにお供をつれた貴人が牛車でやってくる。
と、その宿の犬がけたたましく吠えた。
「徒然草」のくだりである。
東京女子大は、この「犬の吠えた」状況を
説明させる問いを出したのだ。
解答は、「この宿にはひとがめったに訪れないようす」
とか、書けばいいのだが、その思考の道筋を
生徒に説明しなくてはならない。
たしかに、ひっそりとしているところに、
がちゃがちゃ人がくれば犬だっておどろくだろう。
だが、これを普遍性のある説明をしなくてはならない。
そこで、思考の底辺に「日常性」と「非日常性」という
チップをいれてやる。と、ひっそりとした宿という「日常」に
男の来訪という「非日常」が衝突するのだから、
とうぜん犬は吠える、だから、この宿の日常性を
解答すればよい、という筋道ができあがる。
つまり、対立的思考が解答に直結すると
いうことである。
この教え方は、わたしがみつけたことではなく、
これは東京女子大の先生から、もちろん
どなたかはしらないけれども、教わったことである。
ありがたい。
で、こんなことを
高校の先生、もちろん、何十年もなさった
ベテランの先生がたなのだが、
その方々に
そんなことを、臆面もなく語る場所を
もうけてくださったのだ。
と、そのお二人の先生は
とても興味深く聞いてくださり、納得も
されていたように感じた。
たぶん、3時間くらい
立て続けに話してしまったで、かなり
お疲れだったかもしれないが、
なにしろ、うれしかったのは、
わたしの考え方に耳を傾けてくださったことである。
じつは、わたしのやり方、考え方、これを
いままで、しっかり聞いてくれたひと、
先生は皆無だったのだ。
ふん、また、お前がなんか言うとるわい、
みたいに空気である。
が、この高校の先生がたには、
学究心がすこぶるあって、真摯なこころで
聞いてくださり、頷いてくださった。
いやぁ、いままでこの仕事をしてきたことが
すこしでも役にたったかもしれないと
おもう時間であった。
昨日、あたらしい生徒さんと
はじめての授業があった。
で、二人の人格との勝負だよ、
とか、まず、現代文のはじめの一歩を
話しはじめたのだが、
はんぶんくらいの生徒は、手を下におろし
ぼーっと聞いている。
だから、わたしは、その前段として
授業中は筆記用具をけっして手から離さないように
しましょうね、というところから授業がはじまったのだ。
猫にこんばんわ。
ですよ。
