妻と昼飯を食べに駅までは
自転車いくことにした。
坂道をのぼったところで
彼女が言った。
つながって走っているものだから
すこし話が遠いのだ。
そのひとことが
「花屋、なったよ」だ。
「え、花屋がなにになったの?」
とわたしが聞き返すと
「花屋だよ」と、すこし語気があらい。
「よく聞こえないよ、花屋がどうしたって、
なにになったって?」
自転車に乗っての会話はどうも
通じにくい。
「坂の上の花屋だよ」
「え、坂の上? どこの坂?」
「うちの坂の上。前、ペンキ屋さんだったでしょ」
「あ、ペンキ屋さんが花屋さんになったってこと」
「そうだよ」
「なら、花屋が出来たよ、とか
花屋に変わったよって言わないと、
花屋なったよ、じゃ、わかんないよ、
日本語として」
「想像力ないわね」
と、やはりすこしいらだっている様子である。
じぶんは間違っていない、
間違っているのは、想像力のない相手である、
という精神状態を、認知的斉合性というが、
まさにそれである。
日本語文法の誤用と
想像力の欠如というものは
おんなじではないのである。
しかし、それを膝を正して説明し始めると
また、とんでもなく話が混線して
とりかえしがつかなくなるので、
こちらがしずかに黙っていることにしている。
くわばらくわばら。
