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哀しい現実である

ミッシェル・フーコーというひとが

「価値観の一元化」について語った。

 

理性が抜きんでて世の中にはびこると

価値観がひとつになってしまう。

 

貧乏人はダメ、病人はダメ、黒人はダメ。

頭のわるいひとはダメ。

 

幸せはお金ではないかもしれない、

病をうけながらも楽しく暮らしているひとが

いるかもしれない。

黒人だって、世界を動かせるような

人物はいた。

馬鹿でも、心根のやさしいひとは五万といる。

 

 でも、けっきょくひとは

心のすみっこで、その人たちを軽蔑したりするのだ。

価値観は一元化されるのである。

アンコシャスバイアスである。

 

 フーコーの時代には、

学歴社会という語彙はなかった。

が、わが国は、学歴社会の真っただ中にいる。

能力主義という言葉もある。

メリトクラシーという。

 

 たしかに、能力はその人の価値をうむ。

が、じゃ、なぜ「ハロー効果」という語があるのだ。

「ハロー効果」とは、「あのひと変だけど、

慶応大学出身だからね、しかたないね」と

言ったような考えをいう。

 

 けっきょく、学歴社会が前景化しただけじゃなぃか。

 

 わたしは、二流大学出ではない。

いや、むしろ、三流大学出身である。

 

 たしかに、その学校に行かせてくれた

親には感謝している。すみません、馬鹿な息子で。

 

しかし、三流大学出というものは

一生の重荷とともに

強烈な劣等意識としてわたし自身に

襲いかかってくるのだ。

 

もちろん、だれからも、お前は学歴が低く、底辺だよな、って

言われない。言われないけれど、

きっと、あいつはおれのことを

そうおもっているんだろうと、

そうおもうだけで、対等にそのひとと自然に

話せなくなるのだ。

「どうせ」という語が語頭にきてしまうからだ。

「どうせ、馬鹿にしてるんだろう」って。

 

 そうやってわたしの人生は終わろうとしている。

まだ、学校や予備校で授業はしているが、

いまのじぶんを作っているのは、

大学を出てからの地道な努力だけである。

 

 その積み重ねを担保に

定年をすぎても企業側がやさしく雇ってくれている。

ありがたいことだ。

 

 だから、わたしのような存在にならないように、

受験生には、なるべく名前のある学校に

進んでもらいたいと願うのだ。

 

 背伸びでもいい、その中で堕落してもいい、

看板だけは、いいものを背負え、というのが

わたしの最後のメッセージである。

名誉は実力ではなく学歴なのだ。

 

 

 口幅ったいが、いまわたしのもっている

スキルは、たぶんだれにも負けないだろう。

 

 知識、指導力、おんなじ教科のひとでは、右にでるものは

いないという自負はある。

 

 が、その矜持は、出身校という

印籠が出されたとき、

いっしゅんで地に落ちるのである。

 

 だれしも劣等感というものを

持ち合わせているだろう。

そして、仲間からは

「あなたが、もし、高学歴だったら、

とてもいやな人になっていたに違いない」と言われた。

 

 うん、そうだろう、きっと。

 

よかったね、底辺学校出でって。

 

 つまり、馬鹿であるじぶんが

いまの家庭を支えているという

パラドクスで暮らしているということなのだろう。

 

大学を出てもう50年が経つのに

この間、ある英語の先生から訊かれたのだ。

 

「せんせい、どこの大学出身ですか」って。