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幸福ってなに

 洗濯はじぶんでしている。

一階に洗濯機があるから、

というつまらない理由である。

三階にもっていけば妻がしてくれるだろうが、

じぶんでできることはじぶんでする。

 

 ひとりだけだから、

そんなに多い量ではないが、

釣りに出かけたときやバドミントンのあとでは、

洗い物がすこしたまる。

 

 で、一階の物干しに干して

乾けば取り込む、というあたりまえの

日常なのだが、洗濯物は水分をすって

ずいぶん重いのだが、

昼過ぎに取り込むときは

すっかり軽くなっている。

 

なぜだが知らないが、

片手でひょいともつ洗濯物の軽さに

なんだかささやかな幸福を感じるのだ。

 

 なぜ。さあ、どうしてか。

仕事が完了したときの満足なのか、

理由がはっきりしないが、なんだか幸せなのだ。

 

 雪の朝、

なにか、ふだんとちがう空気がたちこめる。

世間の音が積もる雪のせいで

かき消されたのか、やたらと静かなのだ。

そして、外がなにやら重たいような

日常からまったく違った「なにか」が

ただようのだ。

わたしは、まず「はっ」と枕ごしに

理性ではない、身体がその「なにか」に

反応したようなのだ。

「雪だ」

そう感じるとき、そのささやかな驚き、

それも幸福感のひとつにいれよう。

 なぜ、うん、わからない。

 

 だいたい、夕方である。

なんとく椅子で、あるいはソファで

うとうとってするときがある。

 

 で、何分かのあと、ゆっくり目が覚める。

そのときも「はっ」とする。

「ここはどこだろう」

薄明の空間、まずは自宅であることに了解する。

「いま、何時だ」

それがたそがれどきであることが

徐々に理解される。

「これから、おれは仕事だったか、

なにもなかったのか」

と、きょうのこれからを

フィードバックするように考える。

「そうか、塾か」と。

 

こうやって、

おもわず昼寝をしてしまったとき、

じぶんをグラデーションのように

取り戻すとき、なんとなく幸福を感じるのだ。

寝ているときは、じぶんとはなんぞや、

などのような自我意識が消失しているので、

まるで、アイデンティティが

車のエンジンをかけて暖機するように

立ち上がってくる、それがどうも

幸せの正体のようだ。

 

 こんなふうに、わたしには

三通りの幸福感がある。

 

 しかし、その幸福感の正体の

本質的な理由など、言語的には説明のつかない

ものかもしれない。

 

 幸福感を言語化したとき、

すでにそれは「にせもの」になってしまう気も

するからだ。

 

 水族館などのプレートを見ながら、

家族の誰かがプレートの説明書きを

口にだして読み上げるひとがいる。

 

「エンゼルフィッシュだって」

と。

 

 なんにんのグルーブでもかまわない。

すべてが識字力をもっているひとたちなのに、

わざわざ「エンゼルフィッシュだって」と

読むのだ。

見ればわかるだろ。なのになぜそう読んでしまうのか。

それも、もれなく「だって」が語尾につくのである。

伝聞推定の「だって」である。

 

なぜなのか。

心理学者はその行為についても

説明をつけるだろうが、

ひとの行動には潜在意識があるから、

そこのところは、まあ、ほっときましょうか、

なんで幸せか、なんで発言するのか、

それは考えないで、感情にまかせましょう、

というのが、もっとも平和で幸福なことなのかも

しれない。