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小学校へのクレーム

 小学校にひとつの電話がかかる。

ひとりの児童の母親からだ。

「うちの子に『いただきます』と言わせないで

くれます?」

 

「はい?」

 

「うちの子に給食のときに『いただきます」を

言わせないでください」

 

「はあ」

 

担任の女性教員も困惑である。

 

「だから、うちはちゃんと給食費払っているので

『いただきます』って言わなくてもいいでしょ」

 

 「でも、それは感謝をあらわすマナーですので」

 

「でも、作っている方はお金もらっていますよね」

 

こういう話である。

モンスターペアレンツだ、で済めばいい話ではある。

が、じっさい、現場でこういう会話があったとき、

どう対応すべきか、すこし考えたい。

 

わが国が「宗教」という語を日常つかうようになったのは、

明治時代である。キリスト教の受容れで、

どこかの仏典からいままでつかったことのない語を

持ち出したのだ。

だから、それまでの日本には「宗教」という語は

使用されていなかった。

では、いままでの奈良の仏教とか、

天台・真言、あるいは鎌倉新仏教はなんだったのか。

ある識者に言わせれば、それは「祈り」のようなもの、

そういう概念だったらしい。

 

この「祈り」というものは

日常にも、家庭にも不可欠で、

家庭には「祈り」が充満している。

「いってらっしゃい」という一言は、

「無事に帰ってくるのよ」という「祈り」である。

 

お父さん、お母さん、元気でいてくださいね、

と、子どもはどこかでそう願っているはずだ。

 

この「祈り」がない家庭は「機能」だけになる。

お父さんは働いてお金を稼いでくれる人、

お母さんは家事をする人、そうなってしまうと、

いざ、お父さんが病気で休むと、

「役立たず」ってことになる。

ぎくしゃくした家庭になるにちがいない。

 

この「祈り」というものは、日本人に与えらた

いや、世界の人びとに与えられた

崇高な文化なのである。

 

ベトナム人が、中国、韓国、日本の人たちを

どこで見分けることができるか、

という話で、日本人はすぐわかるという。

 

食事をする前になにか、おまじないのような語を

発するというのだ。また、買い物をしたお客が

店員に「ありがとう」というのは日本人だけだそうだ。

 

この感謝の言葉は、日本の文化であり、

ナショナルアイデンティティとしての

至宝の産物なのだ。

 

さて、学校という現場で、

もっとも不要な思量は「経済理念」」である。

「経済理念」の根本とは、等価交換の仕組みである。

100円払えば100円分の品物が手渡される、

これが等価交換だ。

 

学校という場は、この理念の持ち込みを

忌避している。

 

が、しかし、いまの生徒は、この理念を

いとも安易に日常的に持ち込んでいる。

それは、幼少のときから、買い物をして、

等価交換の理念が骨肉化しているからである。

 

だから、つまらない授業を受けると、

せっかく一時間聞いたのになんにも

役に立たなかった、

「この授業、意味ないよね」と言い出す。

この「意味ないよね」が経済理念の発露なのだ。

 

 学校という場において、いつ、その授業が

その人の役立つか、それは即効性のものではない。

それが授業なのだ。

 

 教育という現場は、日本の文化を教え、

共同体を守ることを教える場である。

 

 お金を払っているから、

という発想じたいが、経済理念の培地であり、

「祈り」の皆無な機能だけの空間を

作り上げていることにほかならない。

 

 クレームを言ってきた母親は、

旦那は、お金をもってきてくれるマシーンであり、

お腹を痛めた子にさえ、お金がすべであり、

日本の文化も祈りも排除したひとに

しようとしているのであろうか。

 

ま、こういう母親を「馬鹿」とひとことで

片づけてもいいのだが、

そういう「馬鹿」を再生産しないためにも

学校という教育現場があることを

再認識してもらいたいものだ。