青木保というひとの話によれば
アジアには四つの文化の時期が流れているそうだ。
ひとつはその土地固有の土着的時間。
まさに神道がそれである。
つぎがアジア的文化。仏教とか漢字とか
いわば西のほうから伝わったもの。
三つ目が西欧的・近代的な文化。
近代化や工業化である。
四つ目が、それらを融和した現代文化である。
そもそも文化には
グレート・トラディション(大伝統)と
リトル・トラディション(小伝統)とがあって
大伝統というのは国家的な普遍性のある伝統で、
小伝統というのは地域的な伝統である。
が、わたしが
今日、述べたいのはリトル・トラディションどころではなく、
それよりもはるか小さな文化論、および幸福論である。
名付けるなら、ニュートリノ・トラディションである。
たとえば、
洗濯物を干す、ずしりと重い。
が、昼過ぎに取り込むと、むやみに軽いのだ。
洗濯物が乾いている証拠である。
あの、軽くなった洗濯物をもつ手の感触が
じつにいいのだ。
あるひとつの、もちろんパーソナルな仕事の
完了を手のひらに感じる快感である。
成し遂げ「軽さ」なのだ。
まったく違う話しだが、
たまに、うとうとってすることがある。
そして、はっとして起きる。
ここはどこだろう。
そして薄暮である。朝か、いや、夕方なのか。
この明るさは朝か夕方かわからない。
が、『陰影礼賛』のごとき昏さなのだ。
まるで、いっしゅん日本文化の象徴のなかにいるようだ。
そして、つぎに、はたして、俺はこれから
どうすべきなのか。仕事か、休みか。
そのうち、じぶんのデスクでしらずに寝ていることに
気づくのだ。あ、夕方じゃなぃか。
そうか、映画を見ているうちに寝てしまったんだ。
しだいに、じぶんを取り戻してゆく。
じわじわと。時熟のときのように。
ひとは、いつでも自我構造のなかにいるので、
無意識的にも意識的にも「じぶん」という存在を
どこかで感じて生きているものだ。
それが、多少のストレスにもなっているのだろう。
が、うとうととした午睡から目覚めた瞬間、
じつは「じぶん」というものが消滅しているのだ。
そして、ここはどこ、おれはだれ、そして
つぎはなにをする、と次第に「じぶん」が「じぶん」を
取り戻してくる。そのグラデーションの時間が、
わたしには至福の喜びなのだ。
これを文化的な幸福論と呼ぶには、
あまりにも矮小な気もするが、
この国で、両手を広げた幸福論なんかありそうもないので、
こんなささやかな幸せを感じてて生きているのだ。
ニュートリノ・トラディションの中身は
こういうことなのだ、が、
ニュートリノは、じつはまだちゃんと発見されていないので、
わたしの幸福論もあてにはならない。
