予備校の授業をしていると
途中でリタイアをする生徒もいる。
必要科目なのになぜか。
その生徒の理由を聞くと
「難解すぎる」でもなく、「面白くない」からでもない。
「合わないから」がその理由なのだ。
「合わない」とはどういう意味なのか。
つまり、じぶんのスタンスにあなたの指導法が
ミスマッチしているということにほかならない。
定点観測とまでは言わないが、
ようするに、じぶんの立ち位置は不動であり、
それに合う指導法だけを
取り入れようとする姿勢なのだ。
シンパシーとエンパシーという
アンチノミーな考量があるが、
シンパシーとはじぶんに合致した共感であり、
エンパシーとは、想像力を発揮した
みずからの価値観とはちがうものへの共感である。
つまり、「合わない」はシンパシーからの視座で、
エンパシーは微塵も作動していないということである。
わたしなどは、「合わない」と言われれば
大人げないのだが腹が立つ。
「合わせろ」と言いたいのだ。
どうも、いまの若者はじぶんの部屋に閉じこもり
みずからの身丈にあったものだけを吸収しようと
する傾向が強いのではないか。
キャス・サンスティーンが2003年に出版した
『インターネットは民主主義の敵か』という書籍があるが、
すでに、そのころからSNSに対する警鐘はでている。
つまり、見たいものしか見ない、
聞きたいものしか聞かないという姿勢である。
シンパシーの世界そのものである。
フィルターバブルの状況から
みずからの世界に浸ってしまい、
みずからに「合った」ものだけを拾い集める、
いわゆるエコーチェンバーな状態を
じぶんの部屋で構築する。
知らない世界に出会う
知的興奮や好奇心を削りおとして、
じぶんの世界、デーリーミーを日々楽しんでいる。
ソリチュードとロンリネスと
どちらも「孤独」と訳はできるが、
ソリチュードとは、一人でいながら創造的な態度であり、
ロンリネスは、ただなる孤独である。
シンパシーはロンリネスな人間を産むが
エンパシーにはソリチュードな人格が産まれる。
とくに、いまの若者は、じぶんと異質な価値観に出会うと、
それを排除しようとするか、あるいは徹底して
それに攻撃を加えようとする。
知らないものに、もっと触れて
もっと大きな自己実現をめざせばいいのでは、
と、わたしはおもうが、いまの時代は
どうも、自己決定の有能感が底流しているのか、
知らないものは、むしろ「悪」なのである。
なぜ、アフリカを出たか、なぜ森から出たのか、
人類が進歩してきた原動力は「好奇心」だというが、
SNSで育ったものに、もっとも欠けているのは
この一点であるように、わたしはおもうのだ。
学生よ、何についてじぶんは知らないのか、
そんな知性的な生き方に方向転換してみないか。
そして、未知なるものに「合わせる」生き方、
いいじゃないか。