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個人と個性

 じぶんさえよければいい、という考量は、

資本主義の産んだ副産物である。

いわゆるそういう個人主義は、

高度資本主義のシステムのなかに根強くはびこる。

 

 この個人主義を支えているものは、機能である。

仕事場において「それに精通している」、

あるいは、勉学の場において「よく理解できる」という

能力があれば、そのポジションは堅固のものとなる。

 

 ポジションさえ確保できれば、

近代的な幸福論は達成される、とおもいこんでいるひとが

マジョリティだろうし、たぶん、

その考えだけで一生をすごすこともできるだろう。

 

 しかし、逆説的になるけれども、

そのポジションの上に立っても、

そこでめだってはならない。

 

 出る杭は打たれるからである。

 

 これが、とくに都会における個人の立ち位置である。

個人主義の風を吹かせながら、

同時に「個」を表舞台に立たせないという

二律背反のようなことを日々している。

 

 つまり、「個人」と「個性」はべつもの、ということだ。

 

 そもそも「個人」という語が明治時代に造語されてから、

あるいは「社会」という語が作られてから、

どうも世の中の様相がかわってきたようだ。

 

 いま、わたしは「世の中」を使ったけれども、

「社会」という語がない時代は

「世の中」あるいは「世」だった。

 

 「世の中」という語には、みんなといっしょ、

という意味合いがあった。抜きんでた個もないし、

ただ世の中の要請によって、

みずからが生きていた。

が、それは、没個性というものの見方ではない。

鍛冶屋は鍛冶屋さんなりに、農家は農家なりに、

商家は商家なりに、武士は武士として、

そのひとがいなくては、

共同生活になんらかの支障がでるような生活があった。

 ものづくりをしながら、ささやかではあるが、

ある意味、人間らしい営みがあったはずである。

 

 それゆえかどうかはわからないが、

「世の中」あるいは「世」は、「男女の仲」を

あらわすこともあった。

 

 『和泉式部日記』では、

 

 「夢よりもはかなき世の中を、嘆きわびつつ明かし暮すほどに」

と、恋人の為尊親王の死去の哀しみに

くれるくだりからはじまる。

この「世の中」こそ男女の仲そのものである。

 

 「世の中」あるいは「世」には、男女の仲までを

含むゆるやかな空気が当時はあったのだが、近代において、

こと「社会」という語が氾濫すれば、

資本主義社会とか、民主主義社会とか、

堅苦しい語彙にしか付着しない。

「社会」に「男女の仲」という、はなから含意がない。

 

もともと「社会」には、他者をおもいやるとか、いたわるとか、

仲間意識をもつ、とか、そういう温かみを含んでいないのである。

 

であるから「個人」も言わずもがな、「個人」には、

「共有」という意味が欠落している。

 

 テンニースというひとが「ゲマインシャフト」と

「ゲゼルシャフト」と、世の中を二分したが、

つまり、「ゲマインシャフト」とは、血縁、身内の集合体、

「ゲゼルシャフト」とは、利益集団をさす。

テンニースによれば、「ゲマインシャフト」から

「ゲゼルシャフト」に

世の中が移行しているというのだが、

まさしく、それは、家族から「個」が離れ、

利益集団のなかに、「個」が組み込まれている図式なのだ。

 

 田舎に行くと、都会よりもはるかに、

その地域を守ろうとする意識が増える。

 あるいは、都市から田舎に転居したひとたちは、

そこで、仲間意識、コミュニティ意識を持とうと

考えるのだが、まず、そういう人たちが

することは、「祭り」である。

 

 べつに神を呼んでこなくてもいいので、

まずは「祭り」を執り行う。

それが地域一体の象徴的行事となる。

 

 ほんらい、日本には宗教とか信仰とかという

概念はなかった。宗教とか信仰という語は、

やはり明治時代に、

西洋から入ってきた「そんなもの」に

なにか命名しなくてはならないという事情から、

経典のなかにあった死語のような語を

拾い出しての「無理くり」な結果であった。

 

 では、「祭り」は宗教的行事ではないのか。

 

 「祭り」は、そういう宗教的な意味ではなく、

共同体のなかの「祈り」である。

 

 「祭り」は、アニミズムにのっとっておもえば

理解は容易だが、山の神信仰にも似て教義がない。

経典もない。あるのは「祈り」だけである。

 

 それによって、じぶんにどういう「益」がこうむられるのか、

ということをひとはだれしもおもっていない。

 

 山の神は、ただ山を守るだけである。

だから、ひとは、山に登るときに、

どうか無事に入山させてください、

と祈るのである。そこから、なにを得ようとも

おもっていない。これは宗教ではない。

 

 ここが、欧米人にはわかりにくいところなのだろうが、

日本人は、そのへんのところを

アプリオ的に習得していることなのである。

 

 それと類比的に、「祭り」にも、それによって

じぶんがどう恩恵をこうむるのか、とんとかんがえていない。

 

 ただ、この地域、われわれが、無事息災でありますようにと、

祈るひとはいるだろう。それは、宗教などというものとは、

かけ離れた「祈り」の行為である。

 

 とくに、都市より地方のほうが、この祈りを

だいじに守っているということは顕著である。

 

 この「祈り」が、いまの社会、

とくに都市では希薄になっている。

たとえば、もし、家族から「祈り」がなくなれば、

ただの機能的家族となってギスギス感満載であろう。

 

 お父さんは、給料を運ぶひと。お母さんは、炊事洗濯をするひと。

おばあさんは、年金からお小遣いをくれるひと。

すべて役目がきまっている。これじゃ、困る。

 

 

 「気をつけてね、いってらっしゃい」

これが家族の祈りである。

 

 「学校、しっかり行ってこいよ」

これも祈りである。

 

 「行っていらっしゃい」には、無事に帰ってきてね、

という祈りがこめられているではないか。

 

 こういうささやかな祈りがなくなっていく家族が

増えたら、この世は「ゲゼルシャフト」真っ只中、

ということになる。

 

 恵方巻きという、すでに民間行事が流布しているが、

恵方巻きの文化も、すでに企業が参入して、

資本主義のシステムに注入されて、ささやかな祈りが、

資本主義の歯車になってしまった。

 

 コンビにでもデパートでもそこらじゅうで

「恵方巻き、予約」とある。

 

 AKB48が、株式会社、電通によって操作されているのと

おんなじように、もうすでに家庭の祈りさえ、

システムに組みこまれてしまったのだ。

 

だから、わたしはこんな短歌をつくった。

 

 

・恵方巻きことしはどちらをむけばよい組み込まれいる祈りというは

 

 

祈りまでが、社会システムで強要されているのだ。

どっちを向こうが勝手だが、すこし抛っておいてくれよ、

そんなふうにおもう今日このごろである。

 

 だから、よし、せめておれだけは、このシステムには

同調しないで生きてやる、とおもっているのだが、

まてよ、「おれだけ?」

これって、もしかしたら個人主義なのかもしれない。