・追いかけることもしないしそのすべもないなら冬の自販機のあかり
という歌を出身大学の歌会に提出した。
そこの歌会は、集まったところで、担当の教授と、
短歌指導の先生と、学生がひとりかふたり、
それにわたしどものようなOBが数名という
ひどく、しみったれた歌会である。
会場は、できてまもなくの大学の教室なので、
雰囲気はよろしい。
ただ、そこの歌会は、選歌をしない。
一首、一首読み進め、お互いに感想を述べあい、
そのつど司会者が作者を発表し、
その作者が、その歌の解説をするという、
わたしにしてみれば、ほとんど「興味のわかない」歌会なのだ。
作品というものは、発表してしまえば、
ひとり歩きをし、じぶんの作品であると同時に、
みなの共有物であるとわたしは認識している。
だから、そこでじぶんの歌を解説するということは、
みっともなくはしたないことだし、
ナンセンスなことだともおもっている
「追いかける」という拙稿歌は、「も」という係助詞を
二度つかい、「ないなら」という仮定法を使いながらも、
その仮定の条件節と、主節とに
論理的架橋のない、いってみれば、
叙述にむりがある歌であることは、作者の自覚するところである。
係助詞の「も」には、「理」がふくまれるし、
ものごとを制約してゆく機能があるので、
係助詞「は」よりも、あるときはやっかいな助詞となる。
それも、よく知っていて使った。
しかし、「冬の自販機」がぽつんと置かれている
その様相と、運命的なわかれのようなものとが
あいまって、それはそれで世界、あるいは空気を
かもしているのではないかと、
わたしなりに、そうおもっていた。
数名の感想をうかがって、最後に、
大学院生の男のひとがこの歌について
批評した。
ディテールはわすれたが、
「冬の自販機のあかり」としたのがまずくて、
ここは「秋の自販機」にすべきだった。
「冬の」としたところで、この歌の価値が下がってしまった、
と評した。
短歌の先生も微笑みながら、その言説を
聞いていた。
それは、何年も、その生徒を教えてきたひとだから、
その生徒の言うことについて、
そのようなふるまいをするのは、
とうぜんなのだろう。
が、わたしは、この生徒さんの一言を聞いて、
「この大学の短歌会は、すでに死んでいる」とおもった。
まったく、歌評というものをわかっていない。
歌を添削する、ということは、べつに
してもいいことだし、添削することによって、
万人が、ああなるほど、そのほうがいい歌になりますねって、
言うのだったら、うなずきもしようが、
「冬の自販機」を「秋の自販機」にして、
なにがどうなるというのか、
むしろ、冬の世界の枯れた寂寥感がなくなって、
作者の心境とあいまることがなくなるのじゃないかと、
わたしはそうおもってしまった。
添削の妙というのは、
たとえば、
・岩鼻やここにも月の客ひとり
という洒堂という芭蕉の門人の句であるが、
これは、洒堂が夜中に月をみながら歩いていたら、
岩鼻に、猿がいて、その猿までが月を見ているように
感じた、という内容である。
が、芭蕉はこの句に「猿」などはいらない、
わたしも「月の客」としてここにいますよ、
という「自称の句」とせよ、と教えている。
つまり、芭蕉の改作はこうである。
・岩鼻やここにもひとり月の客
こうすると、「なにもの」かが先客として、
月を興じているのだが、そこに、「わたしもいますよ」という
いわゆる「自称の句」となり、
文学的にも、ドミナントにすぐれた作品とななるのである。
先客が「なにもの」でもかわまないのだ、という教えである。
添削とは、こういうものである。
そういう添削もろくすっぽできない、
青二才は、「冬」よりも「秋」がいいとかいう
すっとぼけたことを言わずに、
まず、歌評の基本である、
「冬の自販機のあかり」だと、
その作品はどういう意味合いをもつのか、
含意はどんなものか、をそのひとなりに語り、
では「秋の自販機」にすれば、
その含意がどのようにかわり、そしてすぐれるのか、
という、正当な理路を踏むべきなのである。
それが、歌評だし、作者にも失礼がないもの言い、
というものである。
おそらく、短歌の先生は、生徒さんに、
そういう基本をまったく教え込んでいないのだろう。
わたしが、この大学の歌会が死んでいる、
ともうしあげたのは、そういう事情による。
その短歌の先生は、「実相観入」という語を
なんべんも使っていた。
先生に言わせれば、作者がおもったことだから、
それはそれでいいのである、と、
簡単に言えばそういう内容のことだったが、
「実相観入」とは、見ている実景にみずからの心象を
投入して、対象とじぶんとが、その中に
見事に入り混じり、情景描写であるが、ちゃんと
作者の心境が読み取れる作品をいうはずである。
ひらたくいえば、心象風景のすぐれたもの、
ということになる。
おそらく、短歌の先生は、佐藤佐太郎の弟子と
言っていたが、佐藤佐太郎からは、直接に
伝授されていなかったのだと、わたしはおもっている。
「実相観入」すらちゃんと理解していないのだから。
じっさい、あの学生さんはいまどうなっているのか、
知るすべもなけれども、あのまま成長して、
どこぞの短歌会で、おんなじような評を
しているのなら、わたしども、そういうひとを
「バカ」と呼んでいいことになっているので、
「バカ」のまんまに成長していないことを
切に願うものである