Menu

当店は閉店しました

店舗案内

闇バイト

国語表現という科目がある。

ある意味、作文を書かせるような授業である。

 

ある高校で「闇バイト」について書かせようと

いうことになった。

 

新聞の論説に闇バイトがあったからである。

当然、闇バイトは「悪」であり、べつの仕事を

さがすべきだと論説にはあったが、

生徒の作文はそうではなかった。

 

三十人くらいの生徒なかで

数名であるが、闇バイトを称揚するものがあったそうだ。

 

金がなければ金のあるひとから搾取しても

しかたないだろう、というようなものだった。

 

そして、そのひとりの文章に

「羅生門で教わった」と書いてあったようだ。

 

困ったものである。

『羅生門』という作品は、

小説における主人公論でいえば、

主人公は「境界を超える人物」なのだ。

 

境界を超える、たとえば、走れメロスの「メロス」、

となりのトトロの「さつき」と「メイ」など。

だから『羅生門』の下人も、下人で羅生門にはいり、

盗人として門から出て洛中に行く、という境界を超える人物として

主人公にたちあがる、というように

指導したり、老婆の「この女は悪い奴だ、

悪い奴にはなにをしてもかまわない」という

考えに「じぶんは悪いことをしている」という

認識の欠如、つまり認知的斉合性について教える、

というのが指導の眼目なのに、

生きるためには悪いことをしても

かまわない、というように『羅生門』をとらえて

しまったところに教育のおそろしさを感じてしまった。

 

世の中には「許される悪」というのがある、

とはマイケル・イグナティエフである。

レッサーイーブルという。

レッサーイーブル、許される悪というのは

政治などによく言われる。

すべてが正しいという政策はない、

どの政策がいちばん悪くないか、という考量こそ

レッサーイーブルなのである。

 

水清くば魚住まず、は古くからの言い回しだが、

まさしくレッサーイーブルである。

 

闇バイトという現象を許される悪と

おもっている高校生が、なんにもいる、

という現実を、世の中はどうとらえているのだろうか。

 

ま、おそらく幼少期の家庭での教えに

よるところが大きいのだろう。

 

家庭が貧しくて、しかねぇだろ、

なんか悪いことでもしねぇといきていけねぇんだから、

と、一升瓶を片手に親がそうつぶやいて、

そしてその子どもが『羅生門』を読んで、

「そうだよな、生きてゆくには

悪いことでもしないとな」と、脱線した

レッサーイーブル的な教えにいたら、

闇バイトも「あり」になってしまうかもしれない。

 

まずは親を教育しないといけないし、

まずは、物質的にも精神的にも貧困を

なくしていかないといけないという

当たり前の答えに着地するのだが、

さだまさしも「風に立つライオン」で歌っていたが、

 

「この偉大な自然のなかで病と向かい合えば、

神様についてヒトについて考えるものですね。

やはりぼくたちの国は残念だれど何か

大切なところで道を間違えたようですね」と。

 

うん、国もしっかりしてもらわなければならないけれど、

まずは家庭である。

 

これを、文化資本と呼んでいる。