もうひとり十七世紀の人物として、
フランシス・ベーコンがいます。
「知は力なり」とベーコンは説きます。
イギリス、ジェームズ一世の側近であったベーコンは、
世の中を知るための方法として、
観察・実験をするところからはじまります。
そのときに障害となる偏見やバイアスをベーコンは
「イドラ」とよび否定します。
そしてただしい実験のもとに世界を見極めようとしました。
そこで得られたものは
「自然を服従、征服すること」でした。
自然を支配して改造し、人間の物質的な
生活条件を改善していくという考量です。
しかたないですね。トトロの世界のような
やわらかな自然などなかったのですから。
このような観察・実験、
つまり具体的な事象から抽象的な真理を
みちびく方法論を「帰納法(インダクティブ)」といいます。
演繹法と帰納法とは、ちょうど正反対の考量です。
算数を例にとりますと、いわゆる「場合わけ」、
鶴さんの脚が二本だから三羽いたので六本、
じゃ、カメさんの脚は何本だろう、
などと、じっさいに具体的にせっせとひとつずつ数えるやり方、
これが帰納法、インダクティブです。
それにたいして、数学になると、
まずは公式をまなびます。
それから、それに例題として具体的な
数字をあてはめて練習する、
これが演繹法{ディタクティブ}です。
算数から数学にかわるのは、方法論が変わるからなのです。
そして、そのつぎの時代にあらわれるのが、
十八世紀のイマニエル・カントです。
ドイツ観念論の二大巨頭のひとりです。
カントが道徳のことを「道徳法則」という言い方をするのは、
まさに私たちが従う道徳が普遍的であるべきだ、
と説くからです。いつどこでも道徳的でなければなりません。
そのためには、しっかりとした理性が
そなわらなければならないのです。
ですから、デカルトにしてもベーコンの実績にしても、
カントはすべてを否定するわけではなく、
かれらの真理を認めつつも、
ほんとうに客観的にあなたたちはものを見たのですか、
と指摘するのです。
じぶんの好きな実験だけではなかったのですか、と。