受験指導もずいぶん変貌してきて、
いまでは、大学選びより学部選び、
ひいては教授選びをする時代らしい。
名のある大学よりも、じぶんのホントに
ためになる学部のある大学を選ぶという傾向がみられる。
が、じつは、これは現役予備校が、
従来の名門校になかなか生徒を送れなくなってきたという
事情と密接にかかわっているのだが、
だれも、その予備校の戦略に気づいている者はいない。
わたしに合った大学はどこでしょうか。
さいきん、よく、こういう質問を受けるのだが、
わたしの思考領域においては、
この質問はすでにモラルハザードなのである。
わたしに合う、という考えの危険性は、
わたしという個、アイデンティティが固定していることにほかならず、
ベクトルで表現すれば、すべてが受動ベクトルになっている。
受動ベクトル、つまり、他からの享受という方向性のみが
思考回路にあるのである。これは、幼児期のころから、
高度文明にふれてきた現代人の歪みなのだとおもうが、
自発的な起動よりまえにあふれんばかりのデータが
机上にならんでしまうことの副作用なのである。
なんでもそろっているおままごとみたいだ。
大学というものは、当人になにかを与えてくれる
ステージではないのだ。大学とは、
その人物の思考論理性をじゅうぶん
発揮させてくれる土俵なのだ。
つまり、その人物からの発散を許容受諾するステージにほかならず、
そこでは、ベクトルはおのれから他への能動ベクトルが照射されつづける。
わたしに合った大学、というものは、
だから、じつは、存在しない。
それよりも、かんじんなのは、
じぶんの思考力をだせる大学を探すことだし、
それなら、大学なんか、どこだっていい、
という結論でじゅうぶんだ、と、わたしはおもう。
自動車でたとえるなら、
じぶんの運転にあった高速道路はどこですか、
という愚問をしているようなものだ。
じぶんは、はたして何馬力なんでしょうか、
それを試せる道路はないでしょうか、
これが大学の存在理由なのではないだろうか。
受動ベクトルを持っているものは、
だいたいが多くの不満をいだく。
じぶんに前進がないからだ。
そして、学校はつまらない、と言う。
能動ベクトルを持っているものは、
まず、満足する。じぶんに進歩をみるからだ。
そして、学校は楽しい、と言う。おんなじ空間で学びながら、
片や、つまらない、片や、楽しい、と
正反対の感想をもつのは、
このベクトルの向きによるものだったのである。
ということは、「学校」という主語は、
「わたし」という一人称におきかえても、
まったく同意なのである。学校がつまらない、
とは、じぶんがつまらない、という証明をしてしまっているのだった。
受動ベクトル保持者は、じぶんを間違いのある生物だとは、
おもったことがない。じぶんを試したこと、
計測したことがないからだ。
クラッシクをずっと聴いているクラッシクファンが
音痴であってもわからないように、
はたして音痴を知るには、
じぶんで唄ってはじめてわかるのとおんなじ理屈だ。
ともかく、じぶんには間違いがない
、とおもっている人物は手に負えない。
こういった現状をモラルハザードとよぶ。