ウエイトレスが頼んだ品物を運んできたときに、
「こちらが、シーザーサラダになります」なんて言う。
さいきん、よくこういう言い方を耳にするが、
じつに不可解だ。そもそも「シーザーサラダになる」と
はいかなる意味なのか。テーブルに運んできたときまでは、
白い皿にごちゃまぜの野菜の残骸が乗せられていて、
さあ、よーく見ていてくださいね、
わたしが、ちちんぷいぷい、
おまじないをかければ、ほーら、シーザーサラダになりますよ。
と、言った意味だったのだろうか。
そうおもってもういちどこのウエイトレスの言葉を味わってみよう。
「おまちどおさまです。
こちらが、シーザーサラダになります。えいっ」
どうも違うね。では、あの「なります」の
メッセージはなんだったのか。
この、ウサギの餌みたいな、みどりの野菜をたんと盛った商品は、
ほかの食堂ではどういうネーミングになっているかはわかりませんが、
うちでは、これをシーザーサラダと呼んで販売いたしております、
ま、こんな意味合いなのだろう。ということは、
本家本元のシーザーサラダではありませんが、
とりあえず、そのようなもの、を作成しております、
という意志表示に他ならないのである。
プロ意識の欠如した責任逃れの敗北宣言ではないか。
そうおもってもういちど、このウエイトレスの言葉を味わってみよう。
「おまちどおさまです。こちらが、
もともとは知りませんが、
うちではシーザーサラダという商品になります」
やはり、ホンモノを提供してもらいたい、
と切望するのは、わたしだけではないとおもうのだ。
いま、このようなマガイモノが巷で氾濫しているから、
真の文化の中身がうすくなって、
表層的な味気ないものだけがあふれてしまっているのだ。
カルボナーラだって、あれはバターと生クリームと
卵というフランス料理のソースの基本、
大原則で作るから、ホントは、こってり、ねっとり、
フランス料理の象徴のような料理であるはずなのに、
どこのレストランに行っても、カルボナーラは、
人造人間ビショップの体液のような白い
スープにぷかぷか浮いているスパゲティという
代物に変容してしまっている。
にせもの、ようなもの、のたぐいが街にあふれれば、
われわれだって、そのにせもの、ようなもの、
を受容してゆくうちにそれに甘んじ、
許容しはじめてしまうのだ。
おまけにホンモノのカルボナーラを食べながら、
ああ、味が濃くておいしいね、
ところで、こいつは、なんという名前のスパゲティなんだろう、
なんてとぼけたやつも出かねない。
今日のわれわれの文化は、ホンモノ志向がすっかり消滅し、
ブランド指向だけが定着しているというアイロニーに
直面しているのだ。ブランド指向は中身の良し悪しを気にしない。
ヴィトンを持っていれば、
どんなに使いにくいものでも満足だろう。
それは、まるで、夏休みの課題の昆虫採集に
蝉のぬけがらを集めているおばかな子どものようである。
パッケージさえちゃんとしていれば、
中身の吟味はずさんになってもかまわないという
図式はどこにもあてはまるから、
ステレオなんかでも、何ワットださせるとか、
そういったパフォーマンスにのみこだわり、
購入の選択をしている。どうせ、
ホンモノの音はコンサートで聴くしかないのだから、
しょせんはにせもののデジタル音、
そこにワット数をあげることでホンモノを求めるのは早計だろう。
だから、われわれは、にせものの音を聴きながら、
ホントの音を想像する、という精神文化を築いてゆくべきなのだ。
しだいに、すべてがデジタル化してゆく世の中だから
ホンモノは、やはりアナログのなかにひっそり息づいているという
事情をちゃんと把握し、ホンモノ志向の復権をめざすのが、
急務なのである。
創造は想像であり、想像は創造である。