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俳句あれこれ

 俳句は世界でもっとも短い国語である。

 俳句の先生に、古沢太穂という方がいたが、
神奈川新聞の選者をされていた。
 かれがいうのには、あんまりうまい俳句は、採らないそうだ。
ひょっとすると盗作の可能性があるかららしい。
もし、盗作を新聞の投稿欄に載せたら、
みずからの俳句生命の終焉である。



・荒海や佐渡に横たふ天の川  ばせう

 なんていう宇宙規模のスケールを
芭蕉(ばせう)さん、よくぞ17文字で描いたものだ・


 が、しかし、
OECDが進めている学力到達度調査、
いわゆるPISAで、世界でも日本の読解力の低下は、
報告されているが、こんなみじかい国語では、
語られていない領域がすこぶるあるだろうに、
どんどんリテラシーが落ち込んでは、
俳句の理解もうすっぺらになるにきまっている。

気の毒なことだ、俳句にとって。


 俳句には、字数制限いがいに
おおきくふたつのルールをもっている。


 それは、季語と切れ字である。

 季語は、万人共通語であり、
これを17文字のなかにいれなさい、とある。

 だから、俳人はたった17文字のなかに、
だれもがつかう、使い古され、
色あせた語を入れ込まなくてはならない。

 ま、無季なんていうのもあるが、
それはそれとして。

 なぜ、季語があるかといえば、
イメージが勝手に膨らまないようにとの配慮である。


 これだけみじかい詩だと、
じぶんよがりの、勝手すぎるものになってしまう、
それを防止する働きがあったのだろう。


 それから、切れ字。

「や・かな・けり・なり」がそれ。


・柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺  子規

この「なり」が切れ字。

参考書では、ここに感動の中心がある、とおしえる。

ほとんかな。


芭蕉の作品にこういうのがある。


・山寺や磐にしみつく蟬の聲  ばせう


立石寺という東北の寺を訪れたときの詠である。
この「や」が切れ字。


しかし、芭蕉先生は推敲する。


・山寺や磐にしみこむ蟬の聲  ばせう


「しみつく」よりも「しみこむ」のほうが、
岩の中にはいりこんでいるように感じる。


が、これでも満足ゆかず、最終形はこうなった。

おなじみの、


・閑さや磐にしみいる蟬の聲  ばせう


「しづかさや」と読む。

「しみいる」のほうが、じわじわって入ってくるようで、
おもむきぶかい。また、「山寺や」を「閑さや」にしたことで、
「静」と「動」との対立がうまく効いて
作品の深みがでるというものだ。


 ひとは、なにか音があったほうが、
静かさに気づくものである。

 山奥のホテルで、鹿威しの音が、コーンとひとつでもしたほうが、
この宿のなんと静かなこと、と認識するだろう。


 だから、「閑さや」と、その語にたどり着いたのは、
ほんと、お見事、舌を巻かざるをえない芸当だった。

 と、ここでひとつの疑問がわく。
いまの参考書では、切れ字は、感動の中心である、
そう教えると前述した。

 が、この「蟬の聲」の句では、
感動の中心が「山寺」から「閑さ」に変わったのだろうか。

 一句のなかで感動の中心がスライドすることなど
あるのだろうか。


 ・菜の花や月は東に日は西に  蕪村


 この「や」などの切れ字のはたらきは、
感動の中心とかんがえるのではなく、
切れ字をはさんだ前後、「菜の花」と「月は東に・・・」との
あいだに、論理的つながりをもっていない、というふうに
見たほうが理にかなっていよう。

 「荒海」と「佐渡に横たふ」とにも、
「閑さ」と「磐」とにも、論理的なつながりがない。


 つまり、切れ字というのは、
切れ字をはさんだ語句内容を
論理的な結合なしで、むすぶことのできる、
特効薬なのである。


 これによって、ふたつのイメージがあいまって、
俳句独特の世界をつくることになる。

俳句という言葉は、正岡子規の造語であるから、
江戸までは、句とか俳諧、風雅とかよんでいたが。


 ようするに、切れ字は、喚起力の拡大に
有効に発揮したのである。


  俳句、あるいは句のおもしろみは、ここにある。
季語でもってイメージを押しとどめ、切れ字でイメージを
拡がらせ、そういう正負のエネルギーを、
17文字のなかに打ち込めていったのである。


・もらひ来る 茶わんの中の金魚かな  内藤鳴雪

「かな」が切れ字。これは句末に配置されている。
このときは、いじょうの説明が妥当しない。


 感動の中心にしとこかな。

このへんの事情を泉下の古沢先生なら
なんとおっしゃるのだろう。