ズームというアプリで
授業をしている。
塾の生徒はもちろん自宅で受講。
その家のプライバシーが丸見えということで、
生徒さんを拝顔することはない。
みんな、雪だるまみたいな
記号だけが画面に羅列される。
貧乏な塾でもないはずだが、
まさか、こんな事態になるとは
予想だにせず、だから、ズームといっても、
ウェブカメラなどはもうとうなく、
アイパット・ミニをふたつならべて
わたしを映す。
だから、画像がコマ送りのようになって
さぞや、自宅の生徒さんは見づらいのではと
拝察する。
アイパット・ミニもいままでは、
机をふたつ積んで、そのうえに
内裏雛のようにならべていたのだが、
7月にはいり、ようやくアイパットを挟むような
スタンドが塾にとどいた。
わたしは、新浦安の教室にいた。
社員は4人。課長のワタナベさんから
新入社員のキムラさんまで。
校舎に社員4人という数はレアで、
ひどいところは、社員ひとりで切り盛りしている。
さて、スタンドをたてはじめ、
キムラさんが苦笑いしながら難渋している。
「これ、入らないですね」
教室にとどいたアイパットスタンドは、
アイパット用のもので、ミニだとサイズがちがうのである。
ヒルタさんとホンダさんが
そのまわりを囲む。
ヒルタさんがスタンドを引っ張ったりちぢめたり
しようとするのだが、むろん、ミニはスタンドに
装着できない。
それは自明のことである。
小学生がジャイアント馬場のシューズで
登校しろ、といっているようなものである。
「あのぅ、あのスタンドだと、うちにある
アイパットはつかないんですけれど、
え。入るはずですか? いやぁ」
課長のワタナベさんが電話をする。
たぶん、部長のだれかだろう。
と、キムラ氏、なにをおもいついたか、
「そうだ」といいながら、
アイパットミニにガムテープで
がんじがらめにスタンドにくっつけはじめたのだ。
ついぞ、アイパットミニは、
ミイラ男のようにガムテープでみずからの
姿を覆い隠した。
もちろん、カメラの部分は無事である。
「これならいいですね」
と、社員三人が納得する。
「あれ」
キムラ氏、また苦笑い。
「ミュートボタン、これじゃ押せないですね」
そしてのこり三人も茫然と立ち尽くしている。
(あたりまえだろ、画面をガムテープで覆ったんだから、ばか)
わたしは、傍観しながらも、心でつぶやいた。
さ、困った。困った。
四人は、けっきょくどうすべきか、
わたしの授業でつかうはずの
スタンドを放置したままである。
あと20分で授業がはじまる。
しかたなく、わたしは講師という立場だから、
この塾の運営にたずさわることはまったく
無縁なのだが、あんまりにも無能なので、
いそいで、駅向こうにある百均にはしった。
そこで、机の角を守るための
L字型のスポンジのようなもの、
いわゆる安全クッションL字型を買って、
教室にもどり、嵌めてみた。
そうしたら、どうだ、ぴったりじゃないか。
アイパットミニは、アイパットスタンドに
ぴたりと嵌ったのである。
「ワタナベさん、ほら、できたよ」
と、わたしが言うと、いそいで
教室までかれはきて、
「あ、ほんとだ」
と、すぐさま、さっきの部長だろうか、
電話をその場で報告している。
「あの、百均に売っているコーナーを
守るような、えっと、なんかゴムのような
ものですね、あれだとスタンドにつきます」
社員というものは、
なんだろうね、言われたことしかしないのか、
頭がないのか。
こういう想像がまったくないのである。
マニュアルのなく、あるものを
べつの用途でつかう、そんな創造性を
文化人類学の
レヴィストロースは「ブリコラージュ」と呼んだ。
アフリカの原住民は、野原を歩いて
なんかこれ使えるなとおもったものを
家に持ち込んで、日用品に改良する、
いわゆる「アフリカの知性」というものである。
アフリカにも、そんな知性がある、
ということを、エスノセントリズム、自民族主義のヨーロッパで
発表したものだから、とうじの欧州人は
さぞやびっくりしたことだろう。
べつにわたしが、ブリコラージュ
(それをするひとをブリコルールと言った)している
とは言わないが、そのくらいの機転を利かせろよ、
と言いたくなったのである。
すぐに授業がはじまったので、
わたしは、いまの寸劇をズームのむこうの
生徒さんにくまなく報告し、
こっそりホワイトボードに「ばか」と書いて、
あとはいつもどおりの授業がくりひろげられた。
しかし、まだ、百均でわたしが立て替えた金は
返してもらっていない。