店主日記
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学校がつまらない理由

 学校でのやる気ない生徒が増えているのはなぜか。

という、なんのこともない日常の問題か、

あるいは、根のふかい問題か、

すこしかんがえてみることにする。

じっさい、学校の授業は寝ているか、

じぶんの勉強をこっそりしているか、

といった生徒が多いのは事実である。

 

 

 

 つまり、学校の授業がつまらないからである。

 その理由は、大きく三つに分かれる。

 

 

 

そのひとつは、教師の怠慢につきる。

教材研究と銘打って、じつのところ、

教科書会社からおくられた指導書を

ただ、写しているだけの先生が多いのだ。

そして、その指導書の文面をそのまま板書する。

それは、指導ではなく「移動」でしかない。

 これじゃ生徒さんはたまったものではない。

指導書の移動なら、

そのへんの大学生さんにも

できることである。

 

 

 教科書を教えるのではなく、

教科書で教えるという発想がとことん欠落している。

 

 

 たしかに、教員は学級運営、生活指導、

調査書、生徒の記録とさまざまな雑用があって、

教材に向かう時間には制約があるから、

いたしかたない面もあるだろう。

が、にんげん怠け者説、その言説どおりに

怠慢な者が多いのも、残念だが否定できないようである。

 

 

あるいは、その能力が欠損している教員も

いるかもしれない。

 

 

 

 現代文でも、それを生徒が一人ひとり読解できるには、

どうすればいいかというスキルを教える教師はほとんどいない。

 

古文にしてもしかり。品詞分解して、現代語訳を

生徒に丸投げして、はい、おわりっていう

授業が茶飯事におこなわれている始末である。

 単語をおぼえ、文法をマスターして、

敬語から主語を確認する? 

ばかかよ。そんなわけで解けるわけなかろう。

 

 

 古文にはしっかりとした読解法というものが

あるのであるが、それを教えない。

 

 

 漢文となると、でたらめを

厚顔無恥に平気で教えているひともいる。
「於」とか「乎」とかを「置き字」といって

あたりまえに紙面から消してしまうアホな教員も

多々いるようである。

「而」を置き字?  もう先生やめなさい。

 

 

 言えば枚挙にいとまないが、

どこの参考書をみたのか、仄聞したのか、

とにかく、でたらめや残博な知識で

みずから、センター試験や私立大学の

入試問題を検討することなく、

日常をおくっているという輩も

多くいるのである。

 

 

 べつに私立問題の研究をすることが

教師の本分ではなく、授業というものは、

生徒の教養とか、かんがえ方とか、

ふるまい方を教えるのが本道だから、

それは、それでいいのだけれども、

だが、センター試験にこめられた

それぞれの設問に散りばめられている要素こそ、

その教科の本筋をじつにうまく

語っているものはないのである。

 それを掬い取ることが教師の仕事の

ひとつとおもうが、

そうおもっている教師が

どれほどいることだろうか。

 

 

 

 センター試験の設問には、

ここのところに気を配りなさいよ、

という、センター試験からの

かそけきメッセージが

水琴窟のようひびいているのである。

 つまり、それは、「声」なのだ。

その「声」を聴きとって、

生徒はそのかそけさに気づかないものが

多いので、それを生徒に伝達するだけでも、

すこぶる高度な授業が展開されるはずのだが、

それを実践する人材はほとんど皆無である。

 

 

 

 あんまり教師を否定するのもかわいそうなので、

それを享受する生徒側はどうなのか。

それが二点目である。

 

 

 

 生徒のリテラシィは日増しに落ちている、

というのが実感である。

 フッサールの現象学では、

確かさとは自明なるものの

支えがあって成り立つという言説が

認知されているが、ひとの理性は本能によって

支えられていると換言してもよいかとおもう。

 

 

 本能、あるいは遺伝子が、そのひとの

理性を支えているのである。(これは後述する)

 が、その本能は、さまざまな電子機器によって、

あるいは高度文明によって、

その機能を衰退させてきているのは、まさに

自明のことである。

 

 

 

 インターネットの普及により、

見たいものしか見ない、という行為は

民主制をほろぼすといわれているが、

見たいものしか見ずに、

すべてのひとと共有事項がない、というのが、

その証しである。

これはキャス・サンスティーンの言説である。

しかし、キャス・サンスティーンは

コンセプシャルワークとして語っていたが、

じっさいに現実となっている感がある。

 

 

 

 

 

 携帯依存の、

つまり本能機能のよわまった若者の特徴は、

ゲームは好きだが、

趣味がない、希望がない、夢がない、特技がない、

すきな食べ物はサーモン、

虫を忌避し

(本能的な生き方なら虫は友だちだから)、

すぐ「怒られた」と嘆き、

そして、人生の統合軸にかがけるのは

幸福論でもなく、未来設計でもなく、

ただ「コスパ」なのである。

 

 

 

 コストパーフォーマンスが

かれらを支えているのである。

 本能の薄れている人びとには、コスパと携帯が

命の手綱になっているのかもしれない。

 そのような人たちの認識が

ほんとうに正しいのか、

というところに、

疑念が残存するのはとうぜんだろう。

 

 

 

 理性的判断が希釈されていれば、

あるいは、あるバイアスがかかっていれば、

学校がつまらない、という判断に、

誤差や誤りもあるだろうし、

そして、また、じつは、

そこにじぶんがつまらないという

認識も付随するのである。

 

 

 判断、認識というものは、他者を鑑みると

同時にも、

みずからの査定も含まれているということを

おもっておかなければならないからである。

ちなみに、

「意味わかんない」とかほざく若者もいるが、

あんたに「意味」という意味がわかっているのか、

と、問い直したくなる気もする。

 

 

 

 だから、学校がつまらない、といっている

生徒の判断は、ほんとうにつまらないのか、

みずからが、能力的に劣っていて、つまらなく

感じているのか、そのへんの見積もりは

しっかりと見定めなければならない。

 

 

 

 本能と理性とは、同等の質量をもち、

そのクォンティティも比例的な価値をもつ。

だから、エロイひとほど理性的であるというのは、

それはわたしの持論であり、

まんざらでたらめでもなさそうだが、

しかし、エビデンスの欠片もないのは事実である。

 

 

 

 

 教師の怠慢、

生徒のレベルダウンという二点における

共通項は、感情の劣化にある。

 

 

 

 

 フランクフルターたちの考量は、

あるリソースの配置によって感情の劣化は

必然的におこると説いているが、

教師、生徒、両者ともに言えることだが、

感情の劣化とともに、好奇心の劣化ともつながる。

 

 

 

 にんげんが、森を出て、アフリカを出て、

そして国家をつくった原動力のみなもとは、

好奇心であったのだ。

 

 

 学問にたいする好奇心をうしなえば、

教師も生徒も堕落するにきまっている。

 そして、どちらにせよ、

悪いのはわたしではない、悪いのはダメな教師だ。

あるいは、

だめな生徒だ、とみずからの欠落をみとめようとしない。

 

 

 

こういう心のうごきを「認知的斉合性」という。

「認知的斉合性」はマグネシウムイオンで

検知できるそうだが、これが作動してしまうと

堕落がはじまるのだ。

 

 

 

 教師、生徒、どちらにせよ、

けっきょくは、定言命法的に生きなければ、

けっして救われないという事実に気付くべきだ。

 なにかをするためになになにをする、という

ある目的意識のもとに行為するのを仮言命法という。

 

 

 

 そうではなく、このことがおもしろいので

徹底的に調べよう、学ぼうと、自主的な意気込みで

そのことについて没頭する、

という考量を定言命法という。

(ちなみに、これはカントというひとの術語である)

 仮言命法的な勉強方法だと、期末試験のあと

その教科の暗記事項は、すっかり脳裏から消え去る。

 仮言命法的な授業なら、

生徒のこころ、クオリアに

なにも残存しないのだ。

 さて、この前述の堕落を、

従属矛盾ととらえれば、

 

 

 

その根源的な病巣、

主要矛盾はどこにあるかといえば、

それが三つめである。

 

 

 

 ちなみに従属矛盾というのは、社会における

間違いなどで、それが起こるには、そのもととなる

原因があるはず、つまり主要矛盾があるはずだと

そう論破したのは、あの毛沢東であった。

これを「矛盾論」という。

 

 

 

 そこで、学校でやる気ない生徒の主要矛盾とは。

それは、学校体勢でもなく、

文部科学省でもなく(すこしあるな)

家庭環境でもなく(すこしあるな)、

つまりは資本主義なのである。

 

 

 

資本主義は、われわれの生活を強いてしまった。

資本主義というものはひとつのシステムである。

そのシステムが作動すれば、

そのシステムのポジションを

取りにひとはひた走る。

 

 

 

 どこの高校のどの教育理念がいいから、

その学校を選択する、というひとはまれである。

あの学校の校長の教育方針にひかれた、

なんて話は前代未聞、聞いたことがない。

 そもそも、その学校の校長の名すらしらない

という受験生もいるかもしれない。

 

 

 

 

ようするに偏差値と内申点で高校がきまる。

そして、その高校がある程度、程度が高くなければ

いまのひとの言葉でいえば「やばい」ということになる。

 

 

 それは、みずからの希望ではなく、

ただたんなる場所取り、

ポジション取りにほかならない。

 

 

 

 

 資本主義経済の根本は「等価交換」であり、

そのへんの事情は、内田樹氏の『下流志向』に

くわしいのだが、つまりは、学校にも

経済の理念がもちこまれ、等価交換がおき、

この一時間、金銭を出して聴いているのだから、

それなりの見返りをよこせとおもうこと、

それこそが経済的思考なのだ。

その要求に応じない授業は、

「意味ないよね」とあっさりかたされてしまう。

 

 

 

ほんらい学校には経済理念は必要ないのだが。

 さあ、いい学校に行きなさい。なぜ?

それはいい大学に入るため。なぜ?

だって、いい就職をするために。

 ほんとうは、菜の花畑に囲まれて、そんなに

お金はなくてもじゅうぶんに暮らせれば、

そっちのほうが幸せかもしれない。

 日本海、大間のマグロを釣っていることが

真に幸福かもしれないのである。

が、そんなこと親に言ったら「バカなこと言うな」

のひとことである。

 

 

 

 菜の花に囲まれたり、

漁船に乗ったりすることが、

すでに社会に支配されているひとには、

カテゴライズされていないのだ。

 

 

 

 一般の人の幸福論は、このシステムのなかの

高位なポジションを取ることだけが

妥当することなのである。

 

 

 

 このように、

じぶんで選択的に

自由にあゆんでいるように見えて、

じつは、すっかり社会に支配されている事況を

「監獄理論」という。

 社会を一元化する考量である。

 

 

 

 さまざまな幸福論があってもいいはずなのに、

ひとつの物差しで物を見、学歴社会という

荒海のなかに、

だれしもが飛び込んでゆくのである。

 

 

 

 

 クリスマスになぜケーキを食べるのか。

その答えとして「クリスマスだから」と答える、

それこそが監獄理論にずっぽりはまった答えなのだ。

 みんながしていることをしている、

社会がそのような動きだから、

そのようにしている。

それは、まさしく、

社会に支配されまくっている、

ということなのだ。

 

 

 

 

 一流企業が真の幸せかといえば、

東芝を見れば一目瞭然、日本の企業が

いつ倒産するかわからない時代である。

 いま、もっとも景気のいいトヨタでさえ、

世界で36位である。

 

 

 

 もうすでに、日本は三流国に堕しているのだ。

それなのに、いい高校、いい大学、いい就職、

これは、繰り返すが、

社会に支配されているということに

ほかならない。

 

 

 

 この監獄理論の提唱者は、

ミッシェル・フーコーである。

 

 

 もちろん、フーコーは、学歴社会について

言及していないけれども、ことわが国においては、

この学歴社会と監獄理論は、

まったく同質とみてよい。

 

 

 

 みずからの幸福のためでなく、

社会が学歴をもとめているので、

その場所取りをしようと、

それだけを人生の目的として

突っ走るわけである。

 

 

 

 そんな、学歴社会が背景にありながら、

受験でよいポジションを取りにいくことが、

人生の最大の目標であるというような親や子が、

学校の、のんきな授業に満足するか、といえば、

それは「ノー」なのである。

 

 学校の授業は、そのひとの、

いつ開花するかわからないけれど、

そのひと教養を身に着けさせ、

あ、あのときのあれが、

いまのこれなんだ、という事後的な発見を

味わわせるのが主眼であるはずだ。

 

 

 

 即効性を期待しているはずはないのである。

 しかし、生徒は、

いま、すぐに役に立つことをねがう。

 

 

 

なぜなら、社会に支配されているからである。

 

 

 そして、その社会に支配されていることに

まったくもって自覚がない。無自覚である。

 

 

 

 社会が学歴を要請し、そして、その要請とは

真逆のような授業をえんえんしていれば、

生徒は、その渦中にいて、

なんかつまらないなぁと

ボヤキが出てくるのもとうぜんなのである。

 

 

 学校がわるいのではない。

親がわるいのでもない、

生徒がわるいのでもない。

 

 

資本主義に生きている

にんげんが、

やっとたどり着いた、資本主義の極北に

われわれは生きているということなのだ。

 

 

 

 この、負のループからのがれるためには、

産業構造改革をするよりほかないだろう。

が、それは「痛み」をともなう困難な行為だし、

そして、このシステムを壊してほしくないという

人びとが多数いることも事実である。

 

 

 

 

 その証拠に、自民党の政策にはほぼ反対、

安保法制も、沖縄の基地も、原発も、すべてに

反対なのに、自民党を支持しているのは、

このシステムを壊さないはずの党だからである。

 

 

 

 このシステムに温存していれば、

みずからの思考が停止していても、

そのシステムの一員となって場所取りしていれば、

安穏な生活が送れるからである。

 

 

 

 ミツバチの蜜を集めたり、マグロを獲ったり、

それはシステムからはずれた生き方で、

人びとはそれを望んでいない。

 

 

 

 

 ひとは、ふたつの「じぶん」からできている。

それは、「生きているじぶん」と「生かされているじぶん」である。

「生きているじぶん」とは理性的判断のできる、

後天的なじぶん、

つまりア・ポステリオリなじぶんである。

 

 

「生かされているじぶん」とは、生得的、

50万年の歴史をひきうけている遺伝子による、

本能的な領野、

つまりア・プリオリなじぶんである。

 

 

 

 「生きているじぶん」に付着するのが

文明だとすると、

 

 

「生かされているじぶん」に関係するのが

文化である。

 

 

 

資本主義などは「生きているじぶん」の領域で、

高度文明は、「生きているじぶん」をいかに

快適に過ごすかを最高の目的としてきたのだが、

それと反比例的に「生かされているじぶん」の

死滅的効果にはおもいがおよんでいなかった。

 

 

 

 

高度文明は、「生かされているじぶん」の保全を

まったく考量していなかったのである。

 

 

 

 それによって、「生きているじぶん」と

「生かされているじぶん」のバランスが崩れ、

経済の暴走とともなって、

にんげんがアノミー化

しているとも言えるのではないだろうか。

 

 

 

 

 こうやって、わが国は、どんどん

堕落してゆき、

ひょっとすると消滅してしまうかもしれない、

資本主義システムに乗りながら、

どんどん世界三流国の道をあゆんでいるのである。

 

 

 

 

 しかし、いまのところ、はっきりしているのは、

しかたないから、いまのまま学校に行き、

「勉強、つまんないなぁ」といいながら、

塾に通い、

学歴社会のなかでもがいてゆくしかないのだろう。

われわれはキリギリスなのである。

 

 

 

持ち合わせの、

どんどん蕩尽してゆく文明にひたりながら、

ゼロの世界にむかってゆくのだ。

 

 

 

だめになることがわかっても、

止まらない坂道をくだってゆくしかない。

 そして、そういう不幸を、

堕ちてゆく欠落感を、

日々あじわい、それでも、

このシステムに逆らわずにあるくことが、

最高の幸福なのかもしれない。